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世界の適切な解釈

色々、読んだり見たり聞いたりしていると、自分の中の言葉にならない疑問に対する答えに出会って感動したり、新たな視点に目から鱗が落ちることがある。
だが最近、徒然なるままに感動し鵜呑みにしていてはダメだと思うようになった。

感動したエピソードや、自分の経験の積み重ねで、私には、「きっとこうだ」と強く信じる正義がいくつかある。(環境問題には言い訳せずに真剣に取り組むべきだ、とか、生まれながらの悪人は居ない、とか。)
…それを人に強要することは良くないこともわかっている。
だが、同時に、正しいと信じるが故に自分の考えを人に伝える(なんなら説得する)術を身につけていたいとも思っていた。が、いざ説明しようとしたときに、いかに自分の信じる正義が感覚的でテキトーだったかを、最近思い知らされたのだ。

なぜ、その考えが正しいと思うのか、事実ベースで理論的に話を組み立てられるようになりたい。

それがとても難しい。

まず情報を集める時点でフィルターがかかる。自分の興味のある分野や心地よく感じる情報を脳は圧倒的に優先的に認知するし、AIもこの上なく積極的に協力してくれてしまう。
結果として偏りのない情報を手に入れることが第一の関門として非常に高いハードルを課してくる。

さらに、なるべく公平に収集したはずの情報のうち、殆どは誰かの意図というフィルターがかかっている。
分析者が巧みであるほど、データに関係なく意図した通りの印象をあたえることが可能で、下手をしたら事実と真逆の印象を読み手に与えることさえ可能である。これまた再解釈のハードルが高い。

追い打ちをかけてくるのが感情に影響される記憶の強度。
2000人の統計よりも、一人の体験談・ストーリーの方が、圧倒的に心に響いた、ということは誰しも経験があるだろう。
科学的にはこちらの方が正しいとわかっていても、魔法のような心揺さぶるストーリーの方を信じたくなってしまったりする。

最後に、脳は得た情報を単純化したがる。
「Amazon一位!」も、何年何月何日何時何分時点でのカテゴリ○○の販売個数△△、という一次情報を、刻んで煮て焼いて脳に届けた結果、なんか知らんけど「めっちゃ良い」に変換される。

私の脳はなんて愚かなんだろう。

一次情報にアクセスすることの重要性をひしひしと感じる。
一次情報とは、誰の手も加わっていない、いわばデータの羅列だ。

一次情報(観察された情報− ○が△個、など)はその後グラフや代表値になり、比較され、要約され、伝言されていく中で、主観的な結論に変形していく。(良い・悪い、など)

自分が専門としている分野であれば比較的楽に一次情報にアクセスし、分析し、解釈できるだろう。
だが世界は殆どが専門外のことでできている。
ほとんどの判断のもとになる情報が煮たり焼いたり、誰かの意図が挟まっているというのは、とても怖いことだと思う。

なんとかして一次情報に慣れ親しみ、自分なりの、世界の適切な解釈をする方法を確立したいものだと、強く思うのだった。

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