見出し画像

忙しくて鈍感な

ユヴァル・ノア・ハラリやジャレドダイヤモンドを読んでいると人として生きるとはどういうことなのか、どうあるのが自然なのか、幸せなのか、考えさせられる。

解剖学的に人間が数十万年前から変わっていないことを知ると、私たちの体は閑散としたサバンナやジャングルで生きてた時と同じ体のままなわけで、満員電車に対応できなかったり、長時間労働に対応できないのはとっても普通なことなのだ。
今の街や社会は鈍感で声が大きく大雑把な人に有利にでき過ぎている。なぜなんだ。一生工事している駅。果たして心から好きな人はいるのだろうかと疑問に思うほどの音と光に埋め尽くされている。時間と共に有機的にアメーバのように変化し続け、爆音のアナウンスがかかる交通の要所。用事が無かったらまず訪れたく無い。一体誰の意思で工事しているのか。建造物としての評価は存在するのだろうか。世界の最も醜い建造物トップ100を並べるならば確実にランクインするだろう。金が動くから工事している、それしか理由が思い当たらない。

頼むからもうほっといてくれ。
そう感じることがある。
電車の中に一歩足を踏み入れると、目に入ってくる、字、字、字、字。いかにその商品が、サービスが、技術が、素晴らしいかを訴えかけてくる。一つたりとて無償で提供されるものは無い。無償だったとしても、もちろん最初だけ。こんなに素晴らしいものを私は持っている。欲しかったら金をよこせ。それ以外のメッセージは、ほとんど見当たらない。
金をよこせ。金をよこせ。金をよこせ。
目的地まで無言のメッセージを無視し続けることに精を出し、到着したらようやく解放された!と息をする。

もっと。もっと。
今の資本主義経済の根本ルールのようなものに疑問を持ちながら、他に生きる術を見つけられないからと長いものに巻かれ続けているのは私だけではないだろう。所詮死ぬまでの暇つぶし、そうでも思わなければこの矛盾に耐えられない自分がいる。なんだかこれが最も罪な行動のようにも思える。
もっと、の先には何があるのか?ずっと昔は存在しなかったし、宇宙から見てもどこにも見当たらないのに、そこにあることにされている国境。領海。領空。あえて古い言い方をするが「先進国」の市場を食い尽くして豊かな生活を提供し終わったら今度は「途上国」の市場を狙いにいく。途上国が終わったら次は宇宙だというじゃないか。宇宙に行って何をするのか?この宇宙は俺の領域だとか言って宇宙戦争でも始めるのか?もう、宇宙に行くならもうそのまま太陽系から離脱してしまってくれ。どこまで行けば「自分の持分は、もう増やさなくても良い」と、おとなしくなってくれるのだろうか?
もちろん、医療の進歩や健康状態の全体的(そして圧倒的な)向上という意味では技術や経済の成長も捨てたものでは無いことは理解できる。だが足るを知らずに成長という手法が目的となってしまったときに、どうなるか?私たちは経済成長やお金という「方法」ではなく、別のもの(「うまく回るもの」)を目的とするべきで、今の社会は方法論に目が眩んでいるようにしか思えない。お金ってなんだっけと思わず社会科の教科書を読み返す勢いだ。お金って、なんだっけ…?

今の社会のまま、「経済成長」を実現するには、無駄遣いをすれば良い。新しいものをばかすか作って、売って、どんどこ捨てれば良い。…私は無駄遣いの上にしか成り立たないビジネスモデルなんて、クソ喰らえと思ってしまう。(特に社内で「うちの〇〇が△の××に使われてるので、みなさん買いましょう」なんてセリフを聞いた日には辞表を叩きつけたくなる)
正義を振り翳すと対立が生まれるので必ずしも全てに白黒をつける必要は無いと思うが、私は仕事とは、社会的に正しいとされることを目指すべきだと思う。私にとっての正しさとは、「本当の意味で人間が持続可能であること」だ。本当の意味で、とつけたのは、持続性の話をすると勝手に主語を「会社」に入れ替え、会社の持続性を正義とする言い方が存在するからだ。会社の持続性を議論するとまず短期的利益に話の焦点が行く。環境や人口などは会社にとっての「外部要因」とされるが本来長期的利益として会社に還元されるものなのに、長期的利益はまず無視される。短期的利益の前には正しさなんて吹けば飛ぶチリのようなものなのだ。だが本当に正しいことを目指さないのであれば、やってることは麻薬の販売となんら変わらないと思える。脳に報酬を与えるもの=売れる、は当たり前なので、中毒性の高い商品を次々消費者に与え、「漬け」にすれば良い。消費者がその後どうなろうと、製品が捨てられた後にどうなろうと、知ったこっちゃ無い。法律で許されているかどうか、だけが麻薬とそれ以外の違いだ。もっと、もっと。どんどん、どうぞ。

経済成長が停滞してることを嘆く人の気持ちが分からない。誰か教えてほしい、何がいけないのか。足りなかったものが足りたのだ、全員に行き渡るべきものが行き渡ったのだ、(あくまで格差がない前提ではあるが)そう思うのだが、そこからなぜさらに増やさなければならないのか。私の頭では理解できない。歴史と経済を勉強しなおしたい。
足りないのであれば、足るまで頑張るのは良い。だが足りたあとは、ゆっくりと足りた状態を楽しめば良いではないか。派手で、大きくて、うるさくて、忙しいことが幸せだと勘違いさせる情報があまりにも多すぎる。

無い消費は無いのだ。無い物をあることにしたり、あるものを無いことにするのは、嘘だ。嘘は歪みを生じさせる。生じた歪みが気候変動であり社会問題だ。短期的利益のために大声で嘘をつき続けた結果、声の小さいものが無視され続け、結果、長期的逆襲にあっていると思っている。私には長らく世界がそのように見える。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?