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ゴミュ二ケーション

たまにゴミ拾いをする。

右手に小さなトング、左手に小さなビニール袋。

ゴミを拾うぞと思って歩くと、これまで目につかなかったゴミが驚くほど目に入ってくる。

吸い殻、ペットボトル、空き缶。包装、ストロー、何かのかけら。靴、紐、プラ食器、ハンガー、シャツ。

きちんとゴミ箱に収まることなく、わざとか、そうでなくか、道端にこぼれてしまったものたち。

ちまちまと拾っていると、少しずつ見えてくることがある。

これは見つからないようにわざと隠したな、と思うものがある。
こんなところに入れ込むのにむしろ苦労をしそうな絡まった枝の奥に入り込んだ、元、便利なものたち。
塀と壁の隙間に定期的に詰めに来ている人がいるとしか思えない大量のコンビニむすびの包装。大切にコレクションしていたのかもしれない。

隠されたごみと対峙して
「仕方ないなぁー」
許してあげる。

「隠しても、見えてるよ」
悪いことを一生懸命隠している子供と会話しているような気分にもなる。

この活動は、ごみを捨てたり、こぼしたりする、人間のダメなところが存在していないと成立しない。
拾った後は、すっきりと清潔になるし、日頃大したことをしていない自分も、価値のある人間になったような気分になることができる。
簡単に自己満足できるのはゴミをポイっと捨ててくれた人のおかげなわけだ。

ごみは落ちていないに越したことはない。でも落ちているゴミを拾うことで、いい気分になれる。あと、そこにコミュニケーションが発生してしまっている。捨てた人の弱さを覗いてしまった気分になる。
ケアしてあげる人が必要なんじゃないか。とまで思ってしまう。

ごみを落とす人は脇が甘い。自分の境界線がふわっとしている。
自分に所属していた物体が鞄やポッケからこぼれ落ちたことに気づかない。ぎゅっと握りしめておかなければならない自己の境界線がぼんやりしている。きっと、自身の形に意識がいかないほど、別のことに気持ちを取られてしまっているのだろう。

ごみを捨てる人は、甘えている。捨てても、世界がそれを許してくれると思っている。むしろ、これまで傷つけられた世界に対して仕返しをしている。今まで自分に厳しい言葉を投げかけ、批判し、傷ついていることを気にも止めずに置き去りにしていく世界に対して、ゴミを投げつけて、痛めつけて、仕返しをしている。どれほどこれまで辛い思いをしてきたか叫んでいる。

やはり、少しでも、ごみが減ればいいと思う。

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