落ちこぼれのこと。
茶番の極みで終わった生徒会選挙も終えると、あとのイベントは受験くらいしかない、そう思っていたと前回「紗水さんの陰謀のこと。」で書いたのだが、実はそうではなかった。私が中学三年になった頃、世間は昭和六十三年だった。その翌年である昭和六十四年年頭、日本中に激震が走った。
昭和天皇崩御である。
昭和六十三年に二学期が終わり、冬休みが明けたら平成元年になっていたのである。もちろん公立学校であるから掲揚台には半旗が掲げられ、国民みなが葬式ムードであった。あの当時の雰囲気は、ご存知の方で有ればすぐに思い出せよう。そんなわけで、私の履歴書は「昭和63・中学卒、平成元・高校入学」と、非常にわかりやすく書けるようになった。
無事に入試をパスして入学した学校は、旧制中学以来の伝統を継ぐ学校であり、地元では名門の類いになる。田舎と言うのは「大学より高校」で人を選ぶから、名門校出身と言うのはそれだけでも顔が利く。それを生意気だと思う人々も多かったが、名門校の金看板を背負った我々にはそんな気風もどこ吹く風よ、とばかりに悪さばかりをするようになる。
そして、予想通り私は三六〇余名の俊才の中で落ちこぼれた。最初の中間考査では二五〇位、期末考査では三〇〇位と順調に地べたに向かって低空飛行を始めていた。
この学校に入ってきた新入生に、必ずと言っていいほど指導される文句がある。
「君らは中学ではトップクラスだったかも知れんが、うちでは大した席次には付けないかも知れない。だが落ち込むことはない」
そうは言っても、折角入った名門校の金看板の重みもわからぬうちに、見たこともない桁数の順位や、「5」以外見たこともない評定に「3」や「2」などと言う数字が入ることに、少なからずショックを受ける生徒は少なくなかっただろう。
だが、私はその現状を非常に冷静に、と言うかむしろ歓待してその事実を受容した。私は劣等生だ、落ちこぼれだ、そう思うことでようやくいままでお仕着せられていた「優等生」や「良い子」と言うペルソナを引っ剥がし、気ままな私として高校生活を、青春を謳歌していた。
ところがこの高校、いまではちゃんと十年程度勤めると確実に異動になるのだが、私の頃は勤続ウン十年と言う、とんでもない古参教師が少なからず存在していた。彼らの多くは定年まで我が校の「名物教師」として名を馳せることとなり、十年以上卒業が離れている先輩とでさえ教師の話で酒盛りができる程度には、確かに彼らは「名物」だったのだ。
そう言った「名物」どもは、こぞって私に絡んでくるのである。得意科目以外では毎期毎期赤点を連発し、しかも四〇点台などと言う惜しい落第点ではなく一〇点や二〇点、ひどい時は一桁を記録し出した私に対して彼らは、ことあるごとに執拗に絡み、ちゃんと勉強「も」しろと説教を垂れる。成績の良い生徒が可愛がられるのなら話はわかるが、いまやすっかり学年の落ちこぼれ、お先真っ暗の劣等生を彼らは本来気にしないものだ。
理由は数学と物理に有った。私はすべての教科・科目について均しく勉強をしなかったから、すべてがひどい成績であれば納得が行くのだが、どうも数学と物理だけは成績が良いから、この二科目は好きでちゃんと勉強しているのだろうと思われていたから、「俺の担当科目も勉強しろ」と言うことなのである。勉強すれば出来る、優等生に返り咲ける、そう言われても私はすでに「優等生」のペルソナを剥がして清々していたし、しろと命令されればしないのが私の性分だ。
そして、そんな名物教師連中だけでなく、私と言う生徒に関わったすべての教師がひっくり返った事態を、私は高三の年になってやらかす。
――次回「クイズのこと。」