『オトナ帝国の逆襲』が見せた、青年期の終わり
ずいぶん古い映画の話すんなぁ、と思われたかも知れない。それもそのはず、この「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲」の公開はなんと2001年。つまり21世紀ド頭の年に公開されたのだ。それがいまになって「文春オンライン」にこんなコラムが掲載されたのである。
これに対する反応が、私のTwitterのタイムラインでもいろいろ別れていて、大変興味深かったのだ。特徴的だった以下をここに引用させていただく。
人それぞれの心にある「あの頃」への郷愁。その裏返しとしての「今」への居心地の悪さ。ワンスモアはそうした心の隙間を巧みに突いている。だがそこに囚われていてはいけない。過去と決別して今と向き合い未来を切り開く——作り手側はしんちゃんの戦いを通じてそう訴えかけてくる。
さて、どうだろうか。特にいろいろと人生の酸いも甘いも味わってきた紗水あうら御年44歳には、チクチクと胸に刺さるものもある。だがそれは恐らく直截的な郷愁などではない、それが郷愁的であると感じることに対する、自らへの恐怖心だ。
まず、しんのすけはガキである。ガキであるがゆえに「思い出」と言うものを持たない。まだ「思い出」と言うほどの美化された存在ではなく、そこに存在するのは厳然とした「記憶」である。ガキである以上、彼らはいずれオトナになることを目指す。ほっときゃなるのに、なりたがる。そうやって彼らはいずれ幼年期の終わりを迎えるのであるが、映画の中の記号としては確かに野原家全員によって最終的に甘やかな過去と決別を果たし、未来に向かって行こうとする。そんなカタルシスとノスタルジーの入り混じった作風が、ガキより先に親が泣くカオス現象を引き起こすのである。
だが、幼年期の終わりを迎えた頃、しんのすけは秘密結社イエスタデイ・ワンスモアと戦って未来を取り戻したと言うことを、どのくらい覚えているだろう。それは「思い出」に昇華する前に単なる「忘却」のプロセスに落ち込んでいるかも知れないし、断片的にではあるが覚えているかも知れないが、それが「思い出」として1つのストーリーを生み出すほどの量目になっているかはわからない。
紗水的なこの映画の解釈では、この映画が本線で言いたかったのは、誰しもがいつか迎える「青年期の終わり」の頃、つまり多感な青年期の間に様々な経験をし、その中に「思い出」の種が育まれる中で、成人期に突入したときに私たちが「あの頃が有ったから、今の私がある」と胸を張って生きていけるのか、を問うた作品だ。
別に胸なんか張らなくても、生きていくことならできる。うつむいて、背中を丸めて、社会の片隅で生き永らえることはできる。それで良いのなら問題ない、そのままいてくれれば良い。だが、私はそんなものはいやだ。他人にどう思われようと何とも思わないが、自分が認められない生き方を押し付けられるのは御免蒙る。
甘やかな「思い出」に溢れたノスタルジーに浸り切り、現実を嘆きながら、いまと言う現実に唾を吐くなら、勝手にすれば良い。その代り、アンタはもう現在を生きていないことも、同時に呑み込めるんだろうな。そんな不完全で不安定な感性のままじゃ、アンタの青年期はまだ始まってもいねえよ。
生き方にルールなんて無ぇ、けどアンタはどうやって死にたい? 良い死に方をするには、良い生き方が必要だ。そんなことを暗に『オトナ帝国』のクライマックスでは言っている。現にあの時、チャコはなんと言った。
「死にたくない」だ。
身も蓋もない言い方かも知れないが、現状と対峙できなければ生きていけない、けれどそれだけではやはり辛すぎる。しかしながら、甘美で色良く熟成した「思い出」は一見美しいようで、危険な毒薬である。生き方も死に方も選べるのなら、好きな方を選ぶが良い。現状と対峙して死ぬか、甘い毒薬に塗れて死ぬか。
違いはただ、それだけだ。