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矛盾する「綺麗ですネ」

 漢文世界において支配的な思想である儒教では、「堯」と「舜」という伝説的な聖王の統治を最高の政治のあり方だと考える。漢文を読んでいてこの2人が登場したらほぼ自動的に「よい存在」だと考えてよい。この2人について調べてみると、「堯」が先代の王であり、悪きを改めて良い立派な行いをすることで人々を助ける「舜」の姿を見て、「堯」は「舜」に王の座を譲った、とされるそうだ。この話、少々辻褄が合わない点があるのはお分かりだろうか。この点をあげつらった人物が残した有名な逸話を紹介しよう。元々は漢文だが、書下し文で引用する。皆さんもよくご存じの話だ。
 
 楚人に盾と矛とを鬻ぐ者有り。之を誉めて曰はく、「吾が盾の堅きこと、能く陥すなきなり。」と。又、其の矛を誉めて曰はく、「吾が矛の利なること、物に於いて陥さざる無きなり。」と。或ひと曰はく、「子の矛を以て、子の盾を陥さば何如。」と。其の人応ふること能はざるなり。
 
引用元は、韓非が著した『韓非子』、そう「矛盾」だ。「最高の武器」と「最高の防具」を売る商人が、「その武器でこの防具を攻撃するとどうなるのか」と言われて答えに困る、という非常に短いストーリーだ。韓非はこの逸話で、「堯」と「舜」がともに優れた
王なのであれば、どうして「舜」は「悪きを改め」る必要があったのか。先代の「堯」は優れた君主なのだから、「舜」が改めるような悪い点などなかったはずだ。すなわち、儒教の教えは矛盾している。こういう論法だ。韓非は、儒教と対立する法家の代表的な人物であり、自分の立場を明らかにするために主流派の儒教を攻撃する必要があったのだと推察される。以来、現在に至るまでの長い年月を経て「矛盾」という言葉が私たちの生活に定着していった。
 ある言葉、ある概念が広く普及するのは、それが一定の真理を表している、もしくは、利便性や有益性があるからだと考えられる。「矛盾」もそうなのだろう。私は、「矛盾」がこれだけ普及したのは、「不安」という人間の根源的な感情をよく説明しているからだと考えている。「辻褄が合わない状態」を指すのが「矛盾」だが、人間にとってこの状態は非常に不安定である。正直、状況が不安定だから不安な心理が生じるのか、不安な心理が生じているから状況を不安定なものだと認識して理解しようとしているのかは分からない。それでも、「矛盾」と不安が連動しやすいことは理解してもらえるのではないだろうか。人間にとって「矛盾」が不安であるのは真理であり、その不安状態から脱するためには「矛盾」状態にいかに対処すればいいかを考えればよいという解決策が提示されるという点で有益である。これが「矛盾」の繁殖力の秘訣だろう。
 では、「矛盾」状態にはどのような対処がありうるのだろうか。最も多い解決策が「矛盾の解消」である。ここでいう「解消」とは、辻褄が合わない状態を何とかして辻褄の合う状態にすることを意味する。先程の『韓非子』の例で考えてみよう。商人は「絶対に貫けない盾」と「絶対に貫ける矛」を所有している。「絶対に貫けない」と「絶対に貫ける」が両立するはずがないから、これが辻褄の合わない状態である。これを「解消」するためには辻褄を合わせる必要がある。簡単なのは「片方が嘘だ」と述べることである。もしくは「両方が嘘だ」でもいい。嘘をつくような商人が売る品物を買ってもらえるかは分からないが、辻褄は合わせられる。他にもある。発言に条件をつけて意味内容を限定すればいいのだ。たとえば、特定の動作主を付けてみよう。「あなたが絶対に貫けない盾」と「私が絶対に貫ける矛」となる。「あなた」は何も買わず、「私」は矛を売らずに持っていた方がいい。場面や時期の限定という方法もある。「火曜日は絶対に貫けない盾」と「木曜日は絶対に貫ける矛」となる。両方買っておいて、戦いが火曜日ならこの盾を、戦いが木曜日ならこの矛を持参すればよい。私自身、大学時代に服飾店の販売員をしていたときに、ジーンズを試着したあらゆる女性客に「綺麗ですネ」とうそぶいていた。詳細は省くが、この発言が辻褄の合う場面と合わない場面が存在した。つじつまの合わない場面でのこの種の発言は、当然私を不安定にさせた。私の解決策はいつも、特定の動作主を付ける、だった。私は「(このジーンズが)綺麗ですネ」と言うが、女性客は、私の目線や口調や態度を踏まえて「(あなたが)綺麗ですネ」と私が言っていると受け取る。直接は発言されない括弧の中身が「矛盾」を解消してくれる。
 この「矛盾の解消」は、別の言い方をすると、二項対立の決着と表現することができる。「盾」と「矛」という二項が両立し得ずに対立して存在している。そして、二項の片方を消去する、もしくは二項に含まれる対立点を消去することで、対立状態を解消するということだ。この二項対立という考え方が、合理性と科学の時代である近代が生み出した「怪物」なのだ。人間の不安という漠然とした状態に対して、その原因を二項対立と単純化して、その単純化された図式への介入によって、不安状態を解消する。いかにも近代的な人間の発想だ。教育学者の玄界灘彦は「人間が矛盾が起こるように考えるから矛盾がある」と、矛盾の恣意性を指摘している。それを玄界は「動いているものを静止の論理でとらえる」「変化しているものを静止させてとらえる」という、人間の思考自体に原因があるとしている。人間の把握力には限界がある。細かく見ればどこまでも細部が存在するし、同じ状態が継続している物体など存在しない。そのような複雑な現実を可能な限り単純化して認識するのが人間である。「矛盾」や「二項対立」というある種の単純化は私たちが効率的に生きるための対処の一つだといえる。たとえそうだとしても、そのように思い込んでいるだけだ、という理解は持っていた方がいい。現代は、近代を経て存在している。私たちはどうしても二項対立によって物事を認識してしまう。そのように慣らされており、半ば自動的にそう考えさせられている。このような認識をしないことは難しい。
 では、どうすればいいのか。玄海は「矛盾は発展を駆動する」と述べる。ある瞬間、何かを矛盾だと捉えたとする。ただ、次の瞬間以降、考えた主体も、考えられた対象も変化している。すると、最初に捉えた矛盾した対象と、別の瞬間に捉えた矛盾した対象の間には違いがあるはずだ。その違いは、それまでの矛盾を解消するかもしれないし、さらなる矛盾を生み出すかもしれない。それでも、最初の矛盾状態よりはその対象への理解が進展していることは疑い得ない。何かに矛盾を感じたら、その後の自分と対象の変化を考慮した上で再び対象を見てみよう。何か変化があるはずだ。そこにこそ自分や対象が発展する余地がある。盾も矛も空気に触れれば劣化する。買い手だって戦場で使うとは限らない。「堯」と「舜」の優れた点が同じである必要もない。「堯」は、優れた後継者に潔く地位を譲れる、という点で名君だったかもしれないのだ。二項対立からは逃れられないかもしれない。それならば、認識し得る限りの二項対立に敏感になればいいではないか。それが成長と発展を促してくれる。

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