愛だの、恋だの
日本語は曖昧だ。「ヤバい」「かわいい」「エグい」など、世間に流布する言葉たちを聞いていて、その曖昧さに驚かされる。彼らは、このような限られた語彙を使ってどうやってコミュニケーションを取っているのだろうかと疑問に思うこともある。聞いてみると、「雰囲気」という答えが返ってくる。うん、曖昧だ。ただ、身振りや表情、声のトーン、SNS上であれば絵文字やスタンプなど、非言語的な要素も同時に用いることで、メッセージを伝えやすく工夫はされている。その点をもって「雰囲気」という表現になるのだろう。やはり、日本語は曖昧だ。この点について、多少の不安もある。昭和期の小説家で随筆家である坂口安吾は、この点について『恋愛論』の中で次のように述べている。
日本語では、恋と、愛という語がある。いくらかニュアンスがちがうようだ。あるいは二つをずいぶん違ったように解したり感じたりしている人もあるだろう。
もっとも、恋す、という語には、いまだ所有せざるものに思いこがれるようなニュアンスもあり、愛すというと、もっと落ちついて、静かで、澄んでいて、すでに所有したものを、いつくしむような感じもある。だから恋すという語には、もとめるはげしさ、狂的な祈願がこめられているような趣きでもある。私は辞書をしらべたわけではないのだが、しかし、恋と愛の二語に歴史的な、区別され限定された意味、ニュアンスが明確に規定されているようには思われぬ。
惚れたというと下品になる、愛すというといくらか上品な気がする。下品な恋、上品な恋、あるいは実際いろいろの恋があるのだろうから、惚れた、愛した、こう使いわけて、たった一字の動詞で簡単明瞭に区別がついて、日本語は便利のようだが、しかし、私はあべこべの不安を感じる。すなわち、たった一語の使いわけによって、いともあざやかに区別をつけてそれですましてしまうだけ、物自体の深い機微、独特な個性的な諸表象を見のがしてしまう。言葉にたよりすぎ、言葉にまかせすぎ、物自体に即して正確な表現を考え、つまりわれわれの言葉は物自体を知るための道具だという、考え方、観察の本質的な態度をおろそかにしてしまう。要するに、日本語の多様性は雰囲気的でありすぎ、したがって、日本人の心情の訓練をも雰囲気的にしている。
このように、坂口は「恋」や「愛」という具体例を挙げ、日本語の多様性とその雰囲気性を指摘している。重要なのは、「たった一語の使いわけによって、いともあざやかに区別をつけてそれですましてしまうだけ、物自体の深い機微、独特な個性的な諸表象を見のがしてしまう」、もしくは「言葉にたよりすぎ、言葉にまかせすぎ、物自体に即して正確な表現を考え、つまりわれわれの言葉は物自体を知るための道具だという、考え方、観察の本質的な態度をおろそかにしてしまう」という点だろう。私もまったく同感だ。
3 では、どうすればよいのか。やはり鍛錬なのかもしれない。坂口と同時代を生きた劇作家、小説家である岸田國士は、『言葉の魅力』で自説を次にように紹介している。
言葉の美しさは、言葉そのものの選択配列、それを語り出す表情、それが語られる声の質等によって、さまざまな陰翳(いんえい)となって現われる。更に言葉の選択配列といい、表情といい、声の質といい、いずれもその時と場合で思うように変えられるものではなく、多少の工夫や準備はできるにしろ、大概は表面だけの修飾に終って、その本質は言葉の底に覆うことのできない相(すがた)として示されている。人物の面白さ、その個性の閃きが、第一に言葉の魅力となることはこれで分ると思う。
趣味の高さ、情操の豊かさ、感覚の鋭敏さ、信念の固さ、こういう人間的風格は無論言葉に品位と迫力とを与えるものであるが、また一方、子供の片言や俗語・方言などの中に微妙な愛すべき表現を発見して、これあるかなと思うことがある。真実の響きというのは、即ちかくの如きもので、言葉の生命は決して装飾にあるのではないという証拠である。
言葉遣ひといい、話のしかたといい、要するにその魅力の本体は、その人間のものの考え方、感じ方にあるのであって、いかなる練習も工夫も、お座なりや紋切型の口上に類するものなら、これは凡そ言葉の魅力からは遠いものであることを知らねばならぬ。日常の談話を月並と卑俗とから救うことは、めいめいが自分の「生活」をもつことから始め、読書によって語彙をできるだけ豊富に蓄え、その上優れた文学に親しんで、いはゆる「語感」を十分に呑込んでおくことが肝腎である。
御高説、耳が痛い。特に「めいめいが自分の「生活」をもつことから始め、読書によって語彙をできるだけ豊富に蓄え、その上優れた文学に親しんで、いはゆる「語感」を十分に呑込」むことは、言葉の使い方に関わらず、人生を豊かに、有意義なものにするにあたって不可欠な鍛錬になるに違いない。いたって筋の通った解決策だといえる。
ただ、頭で正しいとわかっていることをそのまま行動に移せるほど人間は合理的ではない。岸田の主張は確かに正しいが、現代人の多くが日常的に行うにしてはハードルが高いように思われる。人間は正しさ、つまり理性だけでは動かない。理性の対義語である感性にも注目すべきである。感性とは、「物事を心に深く感じ取る働き」であり、「感受性」とも言換えられる。他人に何かをさせたい場合には、道理や利益という理性的な説得に加えて、楽しさや喜びといった感情的な部分を刺激することが肝要だ。そこで注目したいのが、「愛する」と「恋する」の違いだ。「愛する」という動詞に目的語をつける場合、「あなたを愛する」などと、助詞に「を」を用いる。「を」は対象を示し、主体がその対象に対して能動的に働きかける意味合いを持つ。一方、「恋する」という動詞に目的語をつける場合、「あなたを恋する」と言えなくもないが、「あなたに恋する」と、助詞「に」を使うことがある。「に」は、場所を示すほかに、原因・理由を意味することもできる。「あなたに恋する」の場合、「あなた」という対象によって、「恋する」という状態が引き起こされている、という意味になる。つまり、助詞「に」を用いることで、対象によって受動的に引き起こされた感情であることが強調されることになる。「あなたに愛する」という表現は通常、用いない。この助詞「に」を用いるかどうか、という点は「愛」と「恋」の違いにおいて決定的だ。つまり、「愛」は能動性、「恋」は受動性がその根幹にある。だから「恋に落ちる」といい、「愛に落ちる」とはいわない。この違いは何を意味するのか。他人に何かをさせる場合、感情に訴えることが重要であった。そしてその際の感情は、その他人を否応なく動かしてしまうものがよい。能動的な「愛」では、感情や行為の主導権は主体側にある。他人に何かをさせる、という話題においては不向きだ。一方、受動的な「恋」は、他人を動かすのに適している。言葉の使い方の鍛錬をさせたいのであれば、言葉やその使い方、もしくは、言葉の使い方を鍛錬させたいと考えている人間に対して、「恋する」状態に持ち込むことは一つの解決策だろう。「好きこそものの上手なれ」ということわざもあるくらいだ。この場合の「好き」は、受動的な恋を意味しているはずだ。対象に動かされ、どんどん対象のことを考え、のめり込み、上達していく。「恋こそものの上手慣れ」だ。言葉は厳密に使わねば。