コロナ禍日記2022年7月25日

世界がコロナ禍に入ってすでに2年半になる。

これは私が所属していた(現在活動休止中)文芸サークル「嶌田井書店」が作ったnote記事だが、2020年の初めからコロナウイルスが広がりつつあることがわかる。

厚生労働省のWebサイトによると、2022年7月23日における新規陽性者数は20万人を超えている。2022年7月1日の新規陽性者数は2万人ほどだから、1ヶ月たたないうちに10倍になった計算である。


現時点で誰がいつ感染してもおかしくない状況であるのは間違いないように思える。また医療体制が非常に厳しい状況にあることも報道されている。


これほど「自分や身近な人がいつ生命の危機に瀕するかわからない」状況は、私の経験では東日本大震災以来のことだ。あのときは東京に大地震が起こったり、原子力発電所が破滅的な大暴走を引き起こしたりしてもおかしくないように思えた。実際そうだったのかどうかわからないが。

しかし、いつ自分が死ぬかわからない状況にもなんだか慣れてしまっているような気がする。仕事もリモートワークになっていないし、近隣の学校も授業や部活動を通常通りやっている様子である。コロナ禍が始まってリモートワークを試みたり、電車に全然人がいなくなったりしたのがなんだか過去の幻のように思える。ホントにそんなことやったんでしたっけ。

あと何十年後かに私が生きていたら「あのときは実際に自分が死ぬかもしれない状況だったわけですよね、どうして冷静に暮らしていられたんですか?」と聞かれる可能性もあるが、「なんだか慣れてしまった」としか答えようがないだろう。冷静に考えると「自分や大事な人が死ぬかもしれない状況に慣れる」ことなど到底不可能に思えるのだが、そうとしか言えない。太平洋戦争中の日本人は自分や家族がいつ空襲で死んでもおかしくなかったわけだが、彼らもこのような気持ちで暮らしていたのだろうか。それとも彼らはもっと死におびえながら生きていたのか。

もちろん、ワクチンを打ったり、医療現場でノウハウが蓄積されているだろうからそれを信頼したりということはあるのかもしれない。しかし結局のところ、自分の安全性がどれくらいおびやかされているのかもわかっているわけではない。ワクチンや医療ノウハウの形成がどれくらいリスクを下げているのかも知らない。「運命のいっさいを天にゆだねた」わけでもなく「自分が感染しないと確信を持っている」わけでもなく「自暴自棄になっている」わけでもないように思えるが、ただぬるぬると日々が過ぎていく。ときどき我に返ると、そういう自分が何だか恐ろしく思えるのである。

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篠田くらげ
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