何を聴いていたかではなくて聴きたくない 何かあるんだろう?【櫻坂46 風の音 歌詞考察】
君は授業中に席を立って教室の後ろのドアから正々堂々出て行く。
それに教師は気づいていないか、諦めているのか注意をしない。
そんなとても映像的な歌詞から始まるのだが、この既視感の正体は「10月のプールに飛び込んだ」の世界観に似ているからだと思う。
10月のプールという二律背反な言葉の組み合わせで表現しているのは「青春」か「人間」か、それとも主人公の僕が確かめたかった「自由」なのかは分からないが、10月のプールに飛び込むというその不器用でキラキラした行動を傍観者として見ていたクラスメイトがこの「風の音」という楽曲の主人公なのかもしれない。
自分も本当は10月のプールに飛び込みたいし、授業中に正々堂々教室から出ていきたい。
常識外れな行動を取って虚しさや息苦しさ、閉塞感から逃げ出したい。
だけどそんな勇気はない。
そんな自分には到底できやしないと思っていることを君は簡単そうに行動に移す。
そして、君は青い空が眩しい屋上で耳に手をやり何かの音を聴いている。
何かを聴いているということは聴きたくない何かがあるのだろうという逆説的な歌詞が文学的で感動する。
君が聴きたくない(見たくない)ものは現実か。
君が聴いていたのはタイトルにある通り、「風の音」なのだろうが、それは何の言い換えなのだろうか。
この楽曲の主人公である僕は君に憧れている。
君が聴いているその風の音を僕も聴きたい。
君には聴こえている風の音が僕には聴こえない。
その違いとは何か。
それは常識からはみ出せる者と諦めて何もしない者の差なのだろう。
つまりは、主体性があるかどうか。
ニーチェ哲学でいう「超人」かどうかがその分かれ道なのかもしれない。
歌詞的には君は成功者だが、普通に考えば落伍者である。
僕は君に憧れていると同時にどこか可哀想に思っていると思う。
結局人間は、学校とか社会とか常識のような構造、システムには抗えないのかも知れない。
君が学校に馴染めないのは、自然の摂理という自分ではどうしようもないことかもしれない。
でも、そこから抜け出したいと思うことは、合っているとか間違っているとかではなく青春という独特でキラキラとしたもう2度と戻る事のできない時間には必要なことだと思うし、どこまでも傍観者でその他大勢の中にいる「僕」には「君」は眩しすぎる。
「風の音」とは若さ、つまりは「青春」だ。