ゴミにもなれないワタボコリな生き方【映画「ジョーカー/JOKER」考察】
映画「ジョーカー」とは2019年に公開されたトッド・フィリップス監督、ホアキン・フェニックス主演の作品で、『バットマン』に登場する最強の悪役(スーパーヴィラン)ジョーカーが誕生する経緯を描いたものだ。
この映画は、ジョーカーの人生転落劇である。
ジョーカーは「アイデンティティの喪失」が原因で大人になりきれていない。
「大人になりきれていない」とはどういうことか。
ここでは、子どもとは反応的、大人とは主体的だと定義する。
反応的とは、簡単にいえば自分が不幸なのは他人のせいだと思っていること。
主体的とは、簡単にいえば自分が不幸なのは自分のせいだと思っていること。
人間とは子ども(反応的)から大人(主体的)と移り変わっていくものだが、ジョーカーはその反応的な気持ちを「アイデンティティの喪失」により拗らせたまま主体的ではない大人になってしまった、つまり、大人になりきれない大人となってしまったということだ。
大人になりきれない大人が多い今の時代だからこそこの映画は共感を呼んだのかもしれない。
乃木坂46に「ワタボコリ」という曲がある。
この曲で突き付けられるのは「ワタボコリな生き方」、つまり「存在しない」かのような生き方の辛さだ。
誰にも相手にされない、何者にもなれない、いつも見えないのに光があたる時だけ確かにそこにいる、そんなゴミにもならないふわふわ漂うだけのワタボコリみたいな軽い生き方の苦しさをこの曲は訴えかけている。
しかし、ほとんどの人が今現在この「ワタボコリ」ではないだろうか。
そして、ジョーカーもそうだった。
そして最終的に、ジョーカーが選んだのは「ゴミ」として確かな存在になる、そういう生き方だった。
「存在しない」かのように扱われるのはもうウンザリだ、と叫んでいるように。
存在しないかのようにワタボコリとして生きていくくらいなら確かに存在するゴミ(犯罪者)として生きていこうとするその過程をみせることで、『ジョーカー』はこの社会が抱える「生きづらさ」を体現しているのだと思う。
人間はジョーカー側になってしまう危うさを常に持っており、映画「ジョーカー」とは、誰にでも起こりうる物語なのだ。