
自立の第一歩は自己決定すること〜重症心身障害と評価・診断されがちな子どもたちから教えてもらったこと①
障害のある子どもたちへの教育や療育は、自立する力や社会参加する力を身につけさせることが目標とされています。
Samが教員をしていた特別支援学校(肢体不自由)の場合、身体を動かす上での困難さが彼らの自立や社会参加を妨げる要因だと考えられています。
したがって、今から30年ほど前は、身体を動かす上での困難さを改善・克服することに教育の主眼が置かれていました。
移動することや食事のためのスプーン操作、衣服の着脱といった日常生活動作(ADL:Activities of Daily Living)の機能を改善・向上させる学習は、その代表的なものでした。

もちろん、子ども自身の力だけでは困難な動作を改善・向上させていくことはとても重要なことです。
でも、私たちの暮らしに焦点を当ててふりかえってみた時、それよりも前に別のことを考えていることに気づかされるのです。
衣服の着脱を例にとって考えてみましょう。
四肢の動作が困難なため自分で服を着ることができない子どもたちには、「手を伸ばしてね」「膝を曲げて」「首をシャンとしてね」といった言葉をかけながら服を着替えさせる場面を目にします。
しかし、私たちが服を着替える際、シャツの袖に手を通すための上肢の動かし方やズボンをはく時の下肢の動かし方、頭・頸・体幹を保持するといったことを細かく考えながら着替えているでしょうか?
それよりも、むしろ「寒いからダウンジャケットを着ていこう」とか「デートだからお気に入りの服にしよう」といったことをまず考えて、服を選んで着替えているはずです。
つまり、TPOに合わせて、「何を着ようか」とか「どの服にしようか」といったことが、まずは重要なはずなのです。

食事に関しても同様に、スプーン等を操作するのに必要な手の動かし方や口の開け方を考えるよりも、「今日はカレーを食べよう」とか「ごはんの次にトンカツを食べよう」といったことの方が、まずは重要なはずです。
重症心身障害と評価・診断されがちな子どもたちのほとんどは、上述したような日常生活動作が困難です。
でも、そんな子どもたちでも視線や指差しといった手段で「何かを選ぶ」ということができるはずなのに、させていないことが少なくないように思います。



このように視点を変えてみた時に、日常生活動作の能力を改善・向上させることと同様に、「何を選ぶ」「どれに決める」といった自己決定する力を獲得・向上させることの重要性に気づかされました。
このことは、自立への第一歩であると同時に、コミュニケーションする力の第一歩であると考えています。
2025年2月26日追記〜かわけんさんのnote記事「自立とは・・・」
元記事をSNSで紹介したところ多くの方から賛同の声をいただきました。
その中の一人かわけんこと敬愛する川田健太郎さんが「自立とは・・・」というタイトルでnoteに記事を書かれました。
障害児・者の支援に携わっておられる方には是非お読みいただきたい内容です。
かわけんさん本人に了承を得て、Samの琴線(ぎんせん)に触れた4つの文言を以下に引用します。
①例えば小学校に入学すると、
「文字を書けるようになる」とか「あいさつができるようになる」といった視点で周りの大人はその人を見がちです。
でも、「文字を書く」ことよりもまえに、
その人が「書きたいと思う内容」「書いて伝えたいと思う相手」「読んでみたい文章」がその人にあるかどうか、の方が本来は大事なはずです。
同様に、「おはようをいうこと」よりも前に、
「おはよう」を言いたい相手がいるかどうか。
②そしてもっと忘れがちなのは、
「本人にそれを拒否する術があるか」「選択肢が用意(提示)されているかどうか」
そこが抜けてるといつまで経っても、
「させている」「してあげている」支援"モドキ"にしかならない。
③さて、”障害者”とされる人たちは、そんな「したい」「したくない」に対して、さまざまな”障害”があるわけですよね。そこで初めて、支援ツールなり支援者なり、配慮なり、といったものがようやく出てくるわけです。
「したい」「したくない」を支えるための杖の役割になり得るのが、ツールだったり支援者だったりする訳で、逆はそうじゃない。
ツールのための支援、支援者のための支援、なんてものは、あってはならないんです。
杖は「歩こう」と思う人がいて初めて杖になる。そうでなければただの棒です。
また、杖は、弱い足の側を支えるのではなく、強い足の側を支えます。
右足が左足よりも動くなら、弱い左側ではなく、強い右側を支える。
一人一人の「強い側」が何か分かっていない状況でどんなツール持ってきても、ただの当てずっぽうでしょう。
④「カレーを食べたい」といって、カレーを作ったとします。
でも食べてみたら、思った味じゃなかった。うまくいかなかった。
これ、周りがカレーを「作らせて」いたのなら、本人には何の責任もないですよね。責任の取りようがないです。
「だって作れって言われたもん」でしょう。人のせいです。
でも、自分が「食べたい」といって、自分で「カレー」を「作る」と自己選択・決定したのなら、
まずいカレーでも一旦食べること、あるいは食べてくれる人に頭を下げることが責任だし、
そこから「レトルトにしたほうが良かった」なり「どこで失敗したのだろうか、もう一回チャレンジしてみよう」なり、「やっぱりカレー食べたい時はあのお店に行こう」なり、それが自分で責任をとる=人のせいにしない、ということ。
その責任が次の「選択」「決定」に繋がります。