
世田美滞在振り返りレポート「縁のないアートのよろこび」涌田悠
百本の枝葉ゆれれば消えながら今日に生まれてゆく波のうた
「アートは世界の、そこに生きる命のうつくしさを祝福する」-これは滞在報告会での上演を終えた夜、滞在ノートに綴ったたくさんの言葉の中のひとつだ。
『縁のない』と名付けたその上演は、そこに集った子どもから大人まで約50名の人々とともに、一本のくぬぎの大樹の枝葉のかたちをからだでなぞることから始まった。100本近い数多の腕の枝葉が、秋の終わりの午後のやわらかな陽の中にうたうように揺らめいている。それぞれの揺らめきの波のかたちが発する無音のうたが混ざり合っては消えてゆく様を、ただただ美しいなと眺めながら踊りはじめた。
〈からだとことばで世田美と触れ合う!~日常生活とアート/アーティストと鑑賞者のあわいを繋ぐ営みとは?~〉をテーマにスタートした世田美での15日間の滞在は、「アートってなんだろう?」という大きな問いを根底に、アートが持つ根源的な力やそれが生み出すよろこびについて、からだと言葉を通して思考しつづける旅のような日々だった。
世田美を巡る人々・作品・空間とからだで触れ合う中で“世田美”が包み込むアートの在り方に出会い、自身にとってのアートがどのように耕されていったのか、滞在中に生まれつづけた短歌とともに振り返りたいと思う。
“あわい”というキーワード
今年の春、打ち合わせの際に世田美を初めてゆっくりと散策をしたときのことを思い出す。人々が何気ない日常を営む場としての公園と地続きの空間に、なだらかに溶け込むように存在する彫刻作品たちのやわらかで凛とした存在感が印象的だった。それらの輪郭を眺めながら、ふと足元の土にあいたモグラの穴に驚いたり、近くに咲いている名前の知らない花にときめいたり、なにかを咥えて飛び去ってゆくカラスにドキっとしたことなんかを鮮明に覚えており、芸術・自然・日常の“あわい”がゆるやかに繋がれている空間づくりに魅了された。
また、世田美は「ARS CUM NATURA AD SALUTEM CONSPIRAT ―芸術と自然はひそかに協力して人間を健全にする―」という言葉を掲げ、日常生活とアート・アーティストと鑑賞者など、様々な形の“あわい”を繋ぐための場作りや営みを行ってきたことを知り、世田美の魅力はなにかとなにかの“あわい”に詰まっているのではないかと考えた。
自身の〈短歌deダンスシリーズ〉の創作活動の中にも、“あわい”というキーワードは潜んでいる。短歌を詠むダンサー/振付家として、「からだと世界の触れ合うところに生まれる言葉と踊りの関係性」に興味を持ち、短歌とダンスという異なる媒体の“あわい”をひとつのからだでゆるやかに往還しながら創作活動を続けてきた。近年は特に、「アートはからだと、からだを取り巻く世界(私たちが日常生活を営む街や惑星を内包する宇宙空間・他者としてのあらゆる生命)とが触れ合うコミュニケーションの循環の中にこそ生まれるのではないか?」との問いとともに、からだと言葉を媒介とした街歩きリサーチや異ジャンルアーティストとの協同による創作・ダンス未経験者や子どもたちと触れ合う場としてのWS活動などに力を入れている。
からだと言葉を媒介とした世田美を巡る人々・作品・空間とのコミュニケーションを通してそこで育まれてきた“あわい”を繋ぐ営みを紐解くことで、非日常的で敷居の高い特別な存在としてのアートではなく、自身の創作活動における問いとも繋がる「あらゆる生命にひらかれた、日常生活と地続きのところにある親しみ深い存在としてのアート」に出会えるのではないかという期待とともに、滞在はスタートした。
日常とアートのあわいに立つ
止まったら踊りはじめるこの星の烏がスキップするアスファルト
滞在初日は、公園(日常)と美術館(アート)の“あわい”を繋ぐ存在として気になっていた屋外の彫刻作品たちのエリアでの散策リサーチから始めることにした。
一見なだらかに繋がっていると感じていた美術館と公園には、実は東京都立(砧公園)と世田谷区立(世田谷美術館)というそれぞれの管轄を示すはっきりとした境界線があることを知る。“はっきりとした”とは制度上のことで、実際には段差もないなだらかなアスファルトのデザインが微妙に変わっているという注意しないと気が付かないくらい控え目な境界線であった。その境目の、まさに日常とアートのあわいにからだを置いてみるという体験はとても味わい深いものがあった。
犬の散歩をする人、自転車で通り過ぎる人など、日常の時間が流れる中で、少し遠くに見える世田美の彫刻たちと同期するように、心の赴くままに少し歩いてはただ止まることを繰り返す。それぞれの目的を持って動く人々の日常の中で、目に見える目的を持たずにただ“止まる”という行為がからだの存在を異質なものに変える。人々に小さな「?」を与える“ダンス”と呼べるかはわからない、しかし、日常の“行為”からは少しはみ出したそれを繰り返すことは、あわいのかたちを少しずつ拡張させるような、日常の中にアートを忍び込ませるようなひそやかな楽しさがあった。
しかし、止まることをじっくりと味わううちに、アートを忍び込ませるまでもなく、動き続けているこの星の日常の中にはすでに美しさが溢れていることに気付く。
止まれば、風の音に、木々の揺れに、カラスのスキップに、蝶の落下に、蜘蛛の巣をつたう雨の雫を射抜く光に、自分のシャツの裾のふくらみに、地球が自転していることに、遠くでゆれるブランコに、羊の群れが空を渡ってゆくことに、あらゆる動いているものの気配に、気づく
「日常とアートはそもそも分かれているものではなく、日常の風景そのものの中にも美しさや、アートの源は溢れているのではないか?」という新たな問いが立ち現れ、「日常とアートの関係性は私が考えているよりももっと複雑なものなのかもしれない」という予感を抱き、初日の散策リサーチを終えた。
動き続けているものたちの中で、長い年月を止まり続けている彫刻たちの静謐な佇まいをからだで味わい、あいさつをするように短歌を詠んだ。
ブロンズの腹は季節にさらされて永遠(とわ)にボーイと目が合ってたわ
(菊池一雄《ながれA》1978年に寄せて)
縁のない絵画を背負い立っていた右手にひかる果実隠して
(舟越保武《杏》1984年に寄せて)

世田美を巡る人々と触れ合う
①鑑賞リーダーの皆さまとの触れ合い
世田美の普及事業の柱となっている“美術鑑賞教室”や“美術大学”の体験、ボランティアとして活動する“鑑賞リーダー”の方々との交流を通して、アートと人々の“あわい”を繋ぐ営みの生の実践現場を体感した。
・美術鑑賞教室体験
リーダー歴15年の鑑賞リーダーTさんのチームに付いて小学4年生の子ども達に混ざり、鑑賞教室を見学させていただいた。
Tさんの「今日は作品の名前なんか覚えなくてもいい。なにかひとつでも自分だけの感動を見付ける冒険をしよう!」という声がけが印象的で、少し緊張していた子どもたちもわくわくした表情で出発した。冒険の道中でのTさんの、知識や鑑賞方法を教えるのではなく、子どもたちと同じ目線で楽しむようにコミュニケーションを取っている姿が印象的だった。彫刻作品の中の魔女の人数についてのクイズを出したり、楽しみながら作品に触れられる工夫が感じられた。子どもたちは自然な流れで作品と触れ合いながら、「蜘蛛の巣に人がへばりついてる!」「肉みたい、ガムみたい、気持ち悪い!」などなど様々な感動を口にしていた。言葉だけではなく、彫刻から受けた感覚をパントマイムのような動きで表現していた場面もあり、子どもたちがリラックスして作品と出会うことで感動が素直に引き出されているように感じた。
私自身、美術館は自身の専門である劇場に比べると子どもの頃からあまり親しみがある方ではなく、今でも少し敷居の高さを感じているようなところもあった。子どもたちと触れ合いながら鑑賞教室を体験したことで、“知る”ことや“学ぶ”ことよりもまず先に“からだで感じる”というアートとの出会いの根源的な楽しみを改めて実感した。
・鑑賞リーダーインタビュー
鑑賞リーダーの弥永信子さん、林大起さん、筑木直子さんの3名にお話を伺った。お三方とも、世田美の“美術大学”の出身で、卒業後もそれぞれの形で様々な表現活動を続けながら20年以上に渡りボランティアとして活躍されてきたベテランの皆さまだ。それぞれの20年を巡る様々な活動を伺う中で、お三方それぞれの人生におけるアートとのゆるやかな繋がりを感じ取れるインタビューとなった。
ボランティア活動の主軸となっている鑑賞教室のお話の中では、子どもたちと長年コミュニケーションを重ねてゆく中での自身のアートに対する感じ方の変化や、鑑賞がより豊かに深まっていった体験のお話が印象的だった。同じ展示を繰り返し様々な子どもたちと観ることにより、子どもたちの多様な反応に触れ、自身のアートの観方が変わってゆく実感があるとのこと。鑑賞教室という事業が、子どもとアートのあわいを繋ぐ役割を果たしているだけではなく、それに携わる鑑賞リーダーの方々にとっても、アートに対する新たな発見に富んだ豊かな時間となっていることを実感した。
また、お三方それぞれの表現活動についてのお話もとても興味深かった。筑木さんは、現在も絵画だけでなく身近な素材で創るパッチワークや、チラシで折った無数の蛙を繋ぎ合わせた作品など、日常的なモチーフを題材にしたユニークな作品を展覧会に精力的に出品されており、「創っている時間そのものが楽しい」と生き生きと話されていた。筑木さんにとってアートが、人生・人間そのものを表現するためのものとして存在してきたのかもしれないと感じた。
アートを愛する鑑賞者であり、創作を続ける表現者であり、人々とアートを繋ぐ存在でもあり、、様々なアートとの関わりが一人の人生の中でゆるやかに混在しながら、その人の生き様とともに形作られている。それがとても自然に日常の一部としてふっくらと存在している様を、美しく感じた。
帰り道、雨上がりの夜道に重なり合うように張り付いた落ち葉を踏みながら、「アートってなんだろう?」と考えていた。
落ち葉落ち葉落ち葉つぎはぎしらぬまにわたしはわたしのかたちになって
➁学芸員の皆さまとの触れ合い
学芸員の村上由美さん(学芸部長)と塚田美紀さんにも、インタビュー形式でお話を伺った。鑑賞者と美術館の“あわい”を繋ぐ役割を担う学芸員のお仕事について、普及事業・パフォーマンス事業・広報・企画展など様々な業務に長年に渡り携わられてきたお二方のリアルな体験談から多面的に深めることができた。
お二方の原点にあるアートを巡る出会いなどにも触れながら、様々な事業として形を変えつつ連綿とつながれてきた「日常生活とアートを繋ぐ」という世田美の根幹に流れる理念の一端を感じられる実感のこもった生のエピソードにたくさん触れることができた。
特に、世田美の大きな特徴とも言える普及事業を巡るお話が印象的だった。村上さんが長年携わられてきた鑑賞教室やWSなどの事業ついて、環境などの違いによらずすべての子どもにアートと出会う機会をつくることや、受動的ではなく能動的なアートとの関わりを育むことの重要性を述べられていたことも強く印象に残っている。時代の流れと共に、効率的な正解が求められることの多い世の中で、「正解がないこと」を前提とするアートの「わからないこと」そのものを味わう体験を子どもに限らず全ての人々に提供することの大切さに改めて思いを馳せた。
また、塚田さんが長年携わられてきた、建築そのもののコンセプトと共に開館当初から展開され続けるパフォーマンス事業の変遷についてのお話も大変興味深かった。「横断していることがむしろ自然」だという考えの下、多様なジャンルのアートが混在することが前提として設計された“世田美”が包み込む大らかなアートの在り方に深く共感を覚えた。
「日常生活とアートを繋ぐ」ということを基盤に、開館当初からそこに携わる一人一人が大切にしてきた思いの積み重ねが、現在の様々なものをふっくらと包み込むような世田美のアートを形作ってきたことを実感した。
世田美に降り積もる、これまでここで過ごされてきた人々の気配を感じながら歩いた帰り道に短歌が生まれた。
そこにいたのよ ブロンズ像のため息が濃くする夜の石鹸を買う
ふれたくて幹を突き出す曲線のどちらに伸びても歌になりゆく

世田美を巡る作品と触れ合う
滞在中に開催していた「生誕130年記念 北川民次展―メキシコから日本へ」を、レジデンスの特性を活かし繰り返し鑑賞することができた。ひとつひとつの作品とからだを通してじっくりと対話することで、時空を越えて作者の魂や感じてきた風景と触れ合うような体験ができた。
学芸員の方へのインタビューで、ひとつの企画展がどのようなプロセスや多くの人々の想いとともに作られているかを伺えたことでも、鑑賞がより深まっていったと感じる。
平面的なのにどこまでも立体的な重さのつまっているような人々の肉体たちのエネルギーや、内臓を引き戻されるような抵抗のリズム、そして民衆と同じ目線で生き抜いた民次の鋭くも温かな眼差しに、滞在中に何度もやさしく背中を押された。
地球ごと寝転んでいる はるかなる午後の大地は腹か背中か
環八にひとのかたちの影落ちてバッタは肉の重さを問へり
生は死に死は生にただつらなってゆく曇天の旋律のなか
このように折れ曲がるのよかなしみの四肢はいなごの瞳(め)には映るか
また、先に述べた世田美の屋外に佇む彫刻作品たちとのからだを通した対話からも、多くの短歌が生まれた。
彫刻たちのからだには長い年月を止まりながら感じ続けてきた幾重もの季節の風景が降り積もっているのではないか?彫刻たちが踊り始めたらどんなダンスを踊るだろうか?
どの作品に寄せた歌かは、世田美に遊びに来たときに探してみてほしい。
舌をなでる味の余韻を語るときあの子の臍に落ちる雨音
羽の先の雨粒落ちて少年の踊りのつづきが始まる合図
秋の陽の溜まる獣の前肢のあいだ 落ち葉を掃く人の過ぐ
世田美を巡る空間・建築と触れ合う
①日常とアートが混ざり合うところをからだで味わう散策リサーチ
初日の散策リサーチで感じた「日常とアートの関係性は私が考えているよりももっと複雑なものなのかもしれない」という予感は滞在を重ねる度に深まっていった。
特に世田美を巡る人々との交流を通して日常生活とアートの“あわい”を繋ぐ様々な営みに深く触れたことで、「日常とアートは知らぬ間に“混在”しているのではないか?」という新たな問いが芽吹いてきた。
滞在の後半では、この問いとともに「日常とアートが混ざり合うところをからだで味わう」という視点で美術館内外の散策リサーチを積み重ねていった。
改めて世田美をゆっくりと歩いてみると、あちらこちらに設計をされた建築家・内井昭蔵さんのコンセプトのひとつである「生活空間としての美術館」というものに込められた想いや工夫をからだで感じ取ることができた。
“波”をイメージしたゆるやかな曲線のデザインが階段の手すりやベンチの背もたれ、踊り場の造形など、いたるところに施されており、ただ歩いているだけでゆったりとした心地よいリズムに包まれてゆく。特に日常とアートの混在を手助けしている存在のひとつだと感じたのは、通称“クジラいす”と呼ばれるクジラ形のベンチだ。このベンチが美術館のあちこちに設置されており、腰掛けるとほっと緩むような日常のからだに戻ることができる。ベンチの配置にも緻密な工夫を感じられ、それに座ることでふと美術館の内外が混在する潮騒のような音に耳を傾けたり、大きな窓の外の日常の景色に溶け込むように佇む彫刻を眺めたり、日常的なからだとアートを享受するからだが自然と混ざり合ってゆくような時間に身を置くことができる。
リサーチを繰り返す中で、日常とアートがひとつのからだの中で混ざり合い、“まだら模様”のようになってゆく新たな身体感覚からたくさんの短歌が生まれた。
くじらの胎(はら)に包まれてたの 釣り銭と烏と咳の潮騒のなか
ここにいなよ あなたの窓はこの星を踊りつづける絵画に変えて
ちょっと待って 胎(はら)の出口は入口のあかるさ二枚の影重なって
樹の枝のかたちをからだでなぞるとき烏はムベに空洞を生む
➁オープンデー〈からだとことばで世田美を味わう!~日常とアートが混ざり合うところを巡る旅~〉
オープンデーとして開催したWSでは、散策リサーチの中で見付けた「日常とアートが混ざり合うスポット」を参加者とともに巡り、からだを使って味わうワークを体験してもらった。さらに、味わった感覚を言葉にし、短歌を詠むワークにも挑戦した。
「クジラいすに座ってからだで美術館の音を聴くワーク」、「通称“夜の廊下”で止まることを味わうワーク」など、身体感覚をひらいて空間をじっくり味わうことで、普段から世田美に馴染みのある参加者の方からも「見慣れたはずの世田美だが、新たな気付きや発見があった」という声が多かった。
「樹の枝のかたちをからだでなぞるワーク」では、「触れていなくても枝葉に触れているような感覚」「樹の魂と繋がっているような感じ」などの新鮮な反応が多く、からだで対象のかたちをなぞる行為が、触れずとも皮膚感覚までひらき、そのものの質感や伸びてゆく感触までもを感受することができるという発見があった。WSに向けて行った鑑賞リーダーの方々とのリサーチではこのワークを通して、「人々がダンスを踊りはじめたときのことを感じた。自然と一体化するような感じだったのかな」という声もあり、短いシンプルなワークの中で、ダンスの根源にまで思いを馳せられること、人間のからだが本来持っている感受する力とそれを促す自然のエネルギーに驚いた。日常とアートを媒介するものとして、“自然”の存在があるのかもしれないと気付き、「芸術と自然はひそかに協力して人間を健全にする」という世田美が掲げている言葉の意味にも改めて立ち返った。
短歌を詠むワークでは、からだで感じた味わいを31文字という短い定型に凝縮するプロセスの中で感動を結晶化させてゆく、自身の考えるからだを通して短歌を詠むことのよろこびを共有する時間となった。
散策の中で印象に残った“味わいハイライト”を短い日記のような文章にする→文章をさらに凝縮させて短歌を詠むというプロセスを経てワークを進めてゆく。文章から短歌の形にしてゆくプロセスの中で、その時の状況や感覚を思い出しながら(咀嚼するように)からだを動かし、味わいを深めることで、腑に落ちる言葉を探求・吟味してゆくという、自身の〈短歌deダンスシリーズ〉における手法もシェアした。各々のペースでからだを動かしながら言葉を紡ぎ、参加者全員がそれぞれの味わいがこちらのからだにも深く伝わってくる歌を詠んでくれた。「からだと言葉の繋がりを感じられた」「普段、短歌を詠もうとしてもうまくいかなかったが、からだで味わうプロセスを経たことで言葉がたくさん出てきた」という声があり、「からだと言葉の往還を通して思考する」という自身が積み重ねてきた創作手法が他者に深く伝わった手応えがあった。自身の創作手法を他者と共有することは、創造し表現するアートの根源的なよろこびをアーティスト・鑑賞者の枠を越えて広げてゆくことに繋がると改めて実感した。
海面はとおのいてゆく 胎(はら)の底でひとのかたちを夜にとかせば
自転車を蝶を埃を映してる横顔、だれの描いた絵のなか
葉の歌の降る午後に立つ 白シャツに生まれたばかりの空をはらんで
あなたとわたしのあわいに枝葉を生んでゆくその手のひらは月に触(さわ)れる

“あわい”から“まだら模様”へ
15日間の滞在を通して、世田美を巡る人々・作品・空間と深く触れ合い、様々な形の“あわい”をからだと言葉を媒介に思考してきた。
“世田美”が包み込む大らかなアートの在り方との出会いにより、自身のアートの捉え方は変容し続け、「様々なものが“まだら模様”のように混在しているふっくらとしたアート」という新たなイメージが耕されていった。

日常とアートは自然を媒介者として分かちがたく入り混じり、個人のからだの中でも創造・表現・鑑賞などアートのはらむ多様なよろこびはゆるやかに手を取り合っている。
独立したなにかとなにかの一方通行的な関係性に留まらず、様々なものが“アート”という大らかな器の中で互いに作用しあう有機的な関係性を結びながら、重なり合うように混在している。
まだら模様のままで歩けば赤ちゃんの口腔(こうくう)に秋の風は休んで
みんなでつくる“まだら模様”の時空間
滞在報告会に向けて、先に述べた「様々なものが“まだら模様”のように混在しているふっくらとしたアート」というイメージを基盤に、構成を考えた。
探究・表現・鑑賞などアートの多様なよろこびが混在した、“まだら模様”の時空間をつくりたいという思いを抱き、制作チームとも相談を重ねながら、滞在で感じたことを共有するトークパート・鑑賞者とアーティストがともに行う散策リサーチ体験パート・滞在で生まれた短歌とともに踊る上演パートの3パートが地続きに繋がってゆくような構成に辿り着いた。
特にこだわった体験パートでは、鑑賞者とアーティストの境界をゆるやかに溶かしてゆく試みとして、滞在中に涌田が発見した世田美の“味わいスポット”をそこで詠まれた短歌とともに味わうことができる『からだと短歌で巡る世田美MAP』を制作・配布した。このMAPには各スポットをより深くからだで味わうための“味わいワーク”のヒントとなるキャプションも記載し、鑑賞者がアーティストの感じてきた視点を自らのからだを通して味わいながら、能動的にアートを楽しむ体験ができることを狙った。直接的にレクチャーするのではなく、MAPを配布してそれぞれのペースで自由に楽しんでもらう形にした(“放牧スタイル”と呼んでいる)のも、これまでの滞在を通して様々な他者と触れ合う中で深まっていった、人間が本来持っている探求心やアートを感受する力への信頼によるのかもしれない。


縁のないアートのよろこび
報告会当日は、秋の終わりと冬の始まりが手を繋いでいるような、やわらかな陽射しに包まれた一日だった。配布したMAPを片手に思い思いに世田美を味わう人々に混ざりながら、ゆったりとした気分で散策をした。くぬぎ広場を見渡す大きな窓がひらけた、通称“昼の廊下”に置かれたクジラいすに座って参加者の人々と並び、窓からの景色を眺めていた。同じ景色を眺めながらも、それぞれのからだの内に異なる絵画が描かれてゆくような、しかしひとつの大きな海の中にともに包まれているような不思議な心地がしたのを覚えている。
それぞれの景色が積み重なったからだでくぬぎ広場に再集合し、一本のくぬぎの大樹の枝葉のかたちをからだでなぞるワークをみんなでやってみることから『縁のない』の上演はスタートした。樹と人々のゆるやかな群舞のように始まり、徐々に参加者は鑑賞する側へと移行してゆく。“踊っている”のは最後には私一人なるのだが、頬を刺す冷たい風や、いくら叫んでも届かない空、犬や烏のおしゃべり、、からだを包むすべての景色と、また、そこに集う一人一人のからだの内に生まれ続ける景色と一緒に踊っているようなよろこびがどこまでも広がってゆく、“祝福”という言葉を呼び起こすような時間だった。
上演後のトークでは、参加者の方々と新鮮なコミュニケーションを取ることができた。「樹々や空や他の生物との境があまりないように感じた」「体験パートがあったことで、作品への理解が深まった」「自分もダンスに参加しているような一体感・没入感があった」など様々な声を聞くことができ、体験パートでの参加者のからだへの働きかけが、参加者自身のからだも上演の一部となっているような一体感を生み、より能動的で味わい深い鑑賞体験を引き出すことができたかもしれないという手応えがあった。同じ時空間を生のからだを通して生きる上演がもたらす特別なよろこびを改めて実感した。
甲板に並んで巨(おお)きな絵をみてた 今、自転車は波間を曲がる
世田美での日々は、「様々なものがまだら模様のように(互いに作用し合う有機的な関係性を結びながら、重なり合うように)混在しているふっくらとしたアート」の持つ根源的な力やそれが生み出すよろこびの果てしなさに改めて気付かせてくれた。
上演を経て、近年の創作における「アートはからだと、からだを取り巻く世界とが触れ合うコミュニケーションの循環の中にこそ生まれるのではないか?」との問いはさらに発展し、「アートは、からだと世界とのプレゼント交換のようなものかもしれない」という新たなイメージも生まれた。アートは表現者のからだのみからは生まれ得ず、それを感受する空間や他者としての生命との触れ合いにおけるエネルギーの循環の中に生まれ、その循環において魂の震えやよろこびは交換され続けている。その交換のためには、発することと同じかそれ以上に“聴く”ことの力が大切であり、様々なエネルギーが循環するためのやわらかな器としてのからだを耕してゆきたいと感じている。
アートのよろこびにからだがふくらんだ夜、上演中に短歌の中の一語として発した“あなた”という言葉の手触りを反芻していた。
アートは、決して交わることのないそれぞれのからだという境界を持った“わたし”と“あなた”の魂の境界をたった一瞬でも溶かし、繋ぐ力を持っているのではないか。
それは、 “あなた”への想像力の欠如によって自身も含めた誰しもが生みうる、目に見える・見えない・近くの・遠くの、この世界でいつまでも止まない暴力や悲しみの連鎖に抵抗するやわらかな力にもなり得るのではないかと考える。
生まれ続ける問いを、からだと言葉を通して思考し続けてゆきたい。
海の底で根は繋がってどこまでがわたしでもよくあなたと呼んだ

テキスト:涌田悠
#世田谷美術館
#砧公園
#アーティストインレジデンス
#アーティスト・イン・レジデンス
#アートネットワーク・ジャパン
#Performance_Residence_in_Museum
#涌田悠