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ラッセ・ハルストレム『ギルバート・グレイプ』(2021/6/2ゼミ)

居住環境についての発表者のペーパーで、田舎というキーワードが出ていましたが、このキーワードから見えてくるものがあります。

映画では、大きなスーパーができて、ギルバートが働くグロッサリー・ストアの客足が減少する様子が描かれています。これは、永遠に変わらないと思われていた田舎社会が、大資本によって変わらざるを得なくなることを表現しています。ハンバーガー・チェーンがやってくるのも同様です。

大資本によってでも、田舎社会は変わるべきなのか。

メリットとデメリットがあります。メリットは、モノや情報の流通が増え、インフラも整って、生活が豊かになること。デメリットは、ご近所さん同士顔見知りの温かい人間関係が失われてしまうことでしょうか。

映画は、大資本による田舎の変化を肯定的に捉えているようです。最初は父が手作りで建てた家を友人の手助けで維持しようとしますが、その友人はバーガー・チェーンに就職し、ギルバートもその家を最後には燃やしてしまう。このことは、田舎の伝統が変わらなければならない状況にあることを示唆しています。

トレーラーでやってくるベッキーは、田舎の外の世界を感じさせる風のような役割を演じます。

また、永遠に変わらない町で、どこにも行けない(と愛人にも言われてしまう)ギルバート(=不自由)と対照的に、アーニーは早い段階から「僕らはどこにだって行ける」(=自由)と言っていました。葬式の最中にやってきたバーガー・チェーンの車に彼が反応するのも、何かの変化を予感させる行為かもしれません。

さて、この映画が作られた1990年代前半であれば、田舎社会の変化を肯定的に捉えても良かったかもしれないのですが、2021年の現在から見ると、デメリットも気になるところです。

たとえばイタリアにはスターバックスがほとんどありませんが、それは自分たちの伝統ある飲食文化を大事にしようという姿勢の現れです。アメリカ式のファスト・フードに対抗したスロー・フード運動に象徴される地産地消の発想で、グローバルな大資本から地域生産者を守ろうという考え方も広まっています。

保守・伝統回帰で、後ろ向きとも捉えられるかもしれませんが、大資本の影響で崩壊してしまいそうな地域をなんとかしなければならないのも事実です。

翻って日本社会をみると、特に地方ではイオンのような大型スーパーが建設される一方で、昔ながらの商店街はシャッター街と化すなど、『ギルバート・グレイプ』と同じようなことが起こっています。

そうした視点に立つと『ギルバート・グレイプ』の田舎の生活にも、なんとなく魅力が感じられます。父親の手作りの家も、お金を払って誰かに委託するのではなく、自分たちでなんでも作ってきた自信と誇りの現れのように思えます。

お金を払えばなんでも代わりにやってもらえる社会は表面上、自由度が高く便利に思えますが、その裏側も知っておく必要があるのではないでしょうか。『ギルバート・グレイプ』は表と裏の両面を意識させる、バランス感覚の優れた映画です。


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