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キム・ギドク『絶対の愛』(2023/5/12ゼミ)

「手をつなぐ」ー キリスト教的図像

教室でも補足したこの点について、参考になるのがジョン・ミルトン『失楽園』(Paradise Lost)です。アダムとイブがサタンの誘惑に負け、禁断の実を食べて楽園から追放される物語詩ですが、最後にこのようなくだりがあります。

Some natural tears they dropped, but wiped them soon;
The world was all before them, where to choose
Their place of rest, and providence their guide:
They hand in hand with wandering steps and slow,
Through Eden took their solitary way.

John Milton Paradise Lost. Edited by Alastair Fowler, Longman, p.642

涙が自然に落ちたが、ふたりはすぐにそれをぬぐった
世界は目の前にあった。その世界では、選ばなければならない
安らぎと摂理の導きのある場所を
ふたりは、手に手をとって、さまよえる足取りでゆっくりと
エデンの周りの、孤独な道を進んでいった

著者試訳


注目したいのは、to chooseという表現です。今まで神に委ねていた生きる道筋を、人間は自分で選択していかなければならないという意味が、そこには込められています。すなわち、「自由意志」(free will)です。

アダムとイブは、「孤独な道」を「手に手を」(hand in hand)とって進んでいくのですが、ゼミではこの図像を、人間の性愛を象徴するものだと説明しました。

いっぽう手元にある詩集の注釈では、これを信仰の表れと解釈しています。

The joining of hands is a hieroglyph of the pledging of faith.

Paradise Lost, p.642


「信仰」とは、罪を犯して神の世界から追放されてしまった人間が、罪を贖い、神の世界へ戻りたいと願うことです。

「手をつなぐ」=「信仰」という注釈に照らし合わせてみると、セヒがジウと手をつなごうとする行為から、「神の愛の世界に戻りたい」「性愛の誘惑のない、純粋な愛の世界に戻りたい」という彼女の思いがみえてきます。

他方、ジウはセヒの気持ちがわからず、性愛の領域にとどまり続けるため、すれ違いが起きているのです。

こうしたキリスト教的価値観は世界的に広まっています。たとえば、「結婚」は、カトリックの教義では神の秘蹟です。つまり、神に誓い、許しを得て、性愛行為が認められます。人間は、そのような儀式を経てはじめて、「神の愛」に戻ることができるのです。

こうしてみると、セヒが目指していたのは、最終的に「結婚」まで行きつくような、神の秘蹟に裏打ちされた純粋な愛のかたちといえそうです。

ただ、そのために整形をしたということになると、整形には神の許しはいらないのか、という問題が出てきます・・このあたりは現代的な状況の変化でしょうか。

キム・ギドク監督のハラスメント問題

上のようなことを書いたのは、『絶対の愛』を監督したキム・ギドクがクリスチャンだったからです。ただし、どこまで敬虔な信者だったかは疑問が残ります。というのも、彼は女優さんからハラスメント行為で訴えられ、裁判でも敗訴しているからです。


『絶対の愛』では、ジウ(と思しき人物)が交通事故で亡くなってしまいます。この結末は、行きすぎた性愛に対する神の怒りと考えられます。

いっぽう、ゼミでの発表にもあったように、最初と最後に同じシーンが描かれる映画の構成から、「人間はくり返される時間の中で生きていくしかない=永遠なる神の世界には戻れない」という「諦念」(ニヒリズム)も読み取れます。

「どうせ人間はみな同じ」というジウのセリフも、神的なものへの諦念かもしれません。

キム・ギドク本人がどういう心境だったのか、わかりません。彼に、もしジウに近い弱さがあったとすると、諦念から信仰の放棄に至り、「手に手を」とることができなくなって、ハラスメント行為に及んだのかもしれません。いずれにしても、許されないことです。

ここで考えたいのは、人間関係のなかに、常にミクロな権力闘争がある、ということです。「権力闘争」とは、力関係のことです。強い立場のものが弱い立場のものに権力をふるうハラスメントは、行きすぎた力の行使です。

キリスト教的信仰は、その権力を神に委譲することによって解決をはかります。人間は無力だから、人間関係も神に決めてもらおうというわけです。

けれども、信仰に対して諦念が生まれたり、神への信仰をもたないでいる人々は、自分たちで権力闘争を処理しなければなりません。ゼミの報告で出た「エゴ」という言葉や、力関係のバランスの悪さという指摘をイメージするとわかりやすいでしょうか。

権力闘争を平和裡におさめるには皆で「手に手をとって」いければ、いちばん良いのですが、ジウのように相手の手を取り損ねてしまうと、人間関係に亀裂が生じるわけです。

キム・ギドクのハラスメント行為は、まさに、相手の手の取り方を誤った(=権力の使い方を間違えた)事例だといえるでしょう。


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