キム・ギドク『絶対の愛』(2023/5/12ゼミ)
「手をつなぐ」ー キリスト教的図像
教室でも補足したこの点について、参考になるのがジョン・ミルトン『失楽園』(Paradise Lost)です。アダムとイブがサタンの誘惑に負け、禁断の実を食べて楽園から追放される物語詩ですが、最後にこのようなくだりがあります。
注目したいのは、to chooseという表現です。今まで神に委ねていた生きる道筋を、人間は自分で選択していかなければならないという意味が、そこには込められています。すなわち、「自由意志」(free will)です。
アダムとイブは、「孤独な道」を「手に手を」(hand in hand)とって進んでいくのですが、ゼミではこの図像を、人間の性愛を象徴するものだと説明しました。
いっぽう手元にある詩集の注釈では、これを信仰の表れと解釈しています。
「信仰」とは、罪を犯して神の世界から追放されてしまった人間が、罪を贖い、神の世界へ戻りたいと願うことです。
「手をつなぐ」=「信仰」という注釈に照らし合わせてみると、セヒがジウと手をつなごうとする行為から、「神の愛の世界に戻りたい」「性愛の誘惑のない、純粋な愛の世界に戻りたい」という彼女の思いがみえてきます。
他方、ジウはセヒの気持ちがわからず、性愛の領域にとどまり続けるため、すれ違いが起きているのです。
こうしたキリスト教的価値観は世界的に広まっています。たとえば、「結婚」は、カトリックの教義では神の秘蹟です。つまり、神に誓い、許しを得て、性愛行為が認められます。人間は、そのような儀式を経てはじめて、「神の愛」に戻ることができるのです。
こうしてみると、セヒが目指していたのは、最終的に「結婚」まで行きつくような、神の秘蹟に裏打ちされた純粋な愛のかたちといえそうです。
ただ、そのために整形をしたということになると、整形には神の許しはいらないのか、という問題が出てきます・・このあたりは現代的な状況の変化でしょうか。
キム・ギドク監督のハラスメント問題
上のようなことを書いたのは、『絶対の愛』を監督したキム・ギドクがクリスチャンだったからです。ただし、どこまで敬虔な信者だったかは疑問が残ります。というのも、彼は女優さんからハラスメント行為で訴えられ、裁判でも敗訴しているからです。
『絶対の愛』では、ジウ(と思しき人物)が交通事故で亡くなってしまいます。この結末は、行きすぎた性愛に対する神の怒りと考えられます。
いっぽう、ゼミでの発表にもあったように、最初と最後に同じシーンが描かれる映画の構成から、「人間はくり返される時間の中で生きていくしかない=永遠なる神の世界には戻れない」という「諦念」(ニヒリズム)も読み取れます。
「どうせ人間はみな同じ」というジウのセリフも、神的なものへの諦念かもしれません。
キム・ギドク本人がどういう心境だったのか、わかりません。彼に、もしジウに近い弱さがあったとすると、諦念から信仰の放棄に至り、「手に手を」とることができなくなって、ハラスメント行為に及んだのかもしれません。いずれにしても、許されないことです。
ここで考えたいのは、人間関係のなかに、常にミクロな権力闘争がある、ということです。「権力闘争」とは、力関係のことです。強い立場のものが弱い立場のものに権力をふるうハラスメントは、行きすぎた力の行使です。
キリスト教的信仰は、その権力を神に委譲することによって解決をはかります。人間は無力だから、人間関係も神に決めてもらおうというわけです。
けれども、信仰に対して諦念が生まれたり、神への信仰をもたないでいる人々は、自分たちで権力闘争を処理しなければなりません。ゼミの報告で出た「エゴ」という言葉や、力関係のバランスの悪さという指摘をイメージするとわかりやすいでしょうか。
権力闘争を平和裡におさめるには皆で「手に手をとって」いければ、いちばん良いのですが、ジウのように相手の手を取り損ねてしまうと、人間関係に亀裂が生じるわけです。
キム・ギドクのハラスメント行為は、まさに、相手の手の取り方を誤った(=権力の使い方を間違えた)事例だといえるでしょう。