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中原俊『櫻の園』(1990年版)(2024/7/9ゼミ)

この映画は大学に入った頃にビデオで見ました。

当時はすばらしい作品だと思わなかったのですが、引っかかるシーンが結構あって、記憶に残りました。そこで何度か見返しているうちに、良さがわかってきて、素敵な映画だなと思うようになりました。

私は初見時、冒頭に出てくるふたりの生徒(宮澤美保・三上祐一)が主人公だと思っていました。ところが、映画を見ていくうちに男子は脇役、女子は物語を進める役回りだと気づきました。では主人公は誰か。

部長の志水(中島ひろ子)や、志水が好きになる部員の倉田(白島靖代)、男装してタバコを吸っていた杉山(つみきみほ)が主人公、ととりあえずはいえると思います。(この3人は原作漫画でもそれぞれフィーチャーされています。)ただ、K先生もおっしゃっていたようにこの映画には「群像劇」の装いがあり、3人以外の人物達も非常に魅力的です。このように物語を導く視点が一人に限定されないのも新鮮で、記憶に残りました。(『グランド・ホテル』という映画にちなんで「グランド・ホテル形式」などともいわれます。)

教室でもいいましたが志水と倉田がセリフを重ねる行為によって距離を縮める描写は何度見ても素敵だなと思います。一緒に写真を撮る場面では、だんだんふたりがカメラに近づいていき、クロース・アップとなるわけですが、スローモーションで顔の表情を大写しにすることで、情感が非常によく伝わってきます。この写真撮影には、高校3年生の彼らにとって『桜の園』が最後の公演となるという時の流れの無常さから、「いまこの瞬間」を切り取ることでふたりの幸福な時間を救い出す(写真は時の流れを止め、半永久的に残る)という意味が込められており、秀逸です。(原作では、志水の倉田への告白は屋上でおこなわれ、セリフ合わせも写真撮影も描かれていないので、映画特有の演出です。)

一方、ふたりの様子を陰から見ている杉山は、このシーンに先立って、志水に対し、倉田を好きなのではないか、と指摘するのですが、その時、レズというわけじゃないけど、というセリフを付け加えています。(このセリフは原作にもあります。「別にレズとかそーいうんじゃなくて…」)杉山は実は志水が好きなのですが、杉山が吸っていたタバコの灰が落ちるショットを入れることで、彼女の思いが伝わらないことが比喩的に表現されています。

ここに描かれている3人の女性の思いが、ある種の「愛」だとすると、「恋愛」「性愛」「友愛」「博愛」のどれにもあてはまらないような気がして、とても不思議です。女子校ならでは、ということなのでしょうか。後輩が先輩に憧れる心象なら理解ができますが、志水と倉田、杉山は全員、3年生で同学年なので、「憧れ」とも違う気がするのです。普段から手をつないで歩く「仲良し」とも違うし、さらにLGBTQのLでもQでもなく、3人がフェミニストというわけでもない。

原作でも、作者の吉田秋生は3人の細やかな心の機微をLやQやフェミニズムといった標語、イデオロギーにとらわれない微妙なニュアンスで表現しています。原作も素晴らしいので、機会があれば一読をお勧めします。
(ちなみにクイアという言葉は当時すでに使われていましたが、最近は標語になってしまい、ジェンダーの概念がその標語に縛られすぎているせいで映画のような創作物や批評的な言説から微妙なニュアンスが切り捨てられている印象があります。)

なお、K先生からも紹介があった映画評論家の淀川長治氏は当時、『櫻の園』を「女性を描けていない」との理由で厳しく批判しました。エルンスト・ルビッチ監督の『陽気な中尉さん』を評して、こう述べています。

これだけの女を描く人が、一体いるだろうか。日本の監督、女を描く人がどこにいるだろうか。まあ、大島渚が二人いても、幼稚園。中原俊の『櫻の園』観ても、最低。もう、どれ観ても、女を描いてないね。

『淀川長治映画塾』

けれど、『櫻の園』は女性性にとらわれつつもその「外」に出ようとする3人の様子を描いていて、「女」を描きたかったわけではないと思うので、私は淀川先生とは違う意見です。(淀川先生の映画についての語りは本当に素晴らしいですが。)

また、桜並木の下で中村先生(南原宏治)が演劇部顧問の里美先生(岡本舞)と話をする場面で、中村先生は敗戦後の大変な状況下、自分たちの目の前にある切実な問題をテーマにせずにチェーホフの『桜の園』をやっていた、という意味のことをいっていました。援助金が出たので、というセリフもあったように、公演を打ったり劇団を維持していくのには相当のお金がかかるという事情がこの会話から読み取れます。

たしかに本来なら、お金をなんとか工面して、自分たちにとってより切実な問題をテーマにすべきでしょう。(K先生の撮ってきた映画作品がまさにそうだと思います。)ただ、チェーホフの『桜の園』は実は戦後の状況下で上演するのにふさわしい戯曲だったともいえるのではないか。それは没落貴族の話だからです。このお話の最後には桜の園を含む貴族の土地を、商人が買い取ってしまいます。つまり、市民社会の到来により、貴族が力を発揮できない時代がやってきた、にもかかわらず貴族や貴族につかえていた召使たちは従来の考え方や習慣を変えることができない。このことを、滑稽に描く戯曲なのです。そうであるならばこの戯曲は、戦後、天皇主権(≒貴族中心社会)から国民主権(=市民社会)となり、民主的な社会が(一応)到来した日本の状況を類推しながら観ることができるのではないでしょうか。こうしてみると、自分たちの目の前の問題(貧困や反戦など)をテーマにしなくても、『桜の園』の上演は戦後すぐの状況下でアクチュアルな意義を持ちえたのではないかと思います。

昨今の日本は格差社会となり、政権与党に戦前回帰志向が強いので、19世紀の「貴族-市民」的社会構造が形を変えて再生産されているようにもみえます。世襲議員の多い政権与党は旧弊を変えられない貴族のゾンビ...とまではいわないにせよ、いま、改めてチェーホフの『桜の園』を見直す意味があるかもしれません。


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