誰もが苦しんでいるという事実
「多様性」という言葉を用いる時、覚悟が必要に思う。私の口にする「多様性」という言葉が、(無意識に)誰かを傷つけてしまうかもしれない。「知らなかった」だけでは許されない。
先日、シソンヌのライブ[dix]を観た時、ハッとさせられる言葉があった。
「今の時代、誰もが生きやすい分、誰もが苦しんでいるんじゃないのか?」
という言葉だ。
この言葉が出てくるコントは、ある女性社員が初めて役員に選ばれ「私が選ばれたのは、女性だからなのですか?」と聞くところから始まる。そして、実力何パーセント、時代の風何パーセントで選ばれたのか、コミカルに問い詰めていく。
女性社員は「女性らしさを求めての選出なのか?」「望んでいたはずなのに優遇されていることで苦しい」と女性の「声」ともいえる言葉が続く。
それを聞いた社長は、老害と呼ばれていること、新しいことを始めると無理をしていると言われることといった社長の苦悶を語っていく。
その言葉を聞きながら、観ている私も女性進出にばかり敏感になっていたことに気づき恥ずかしくなっていく。
そして、「今の時代、誰もが生きやすい分、誰もが苦しんでいるんじゃないのか?」と社長が言うのだ。
このコントを見終えて「多様性」という世界を目指した結果、見失っているものがあるのではないだろうかと考えた。
枠に収められないはずの「多様性」を、アイコン化してはいないか?多くのルーツを持つ人を、女性を、マイノリティを、組織や団体の「顔」や「象徴」として安易にあげてはいないだろうか?
私が記憶する限り、「多様性」の主張の始まりは、実力ある者たちが「女性だから」や「マイノリティ」のバックグラウンドがあるからという理由で、地位につけないことや、目指すこと自体閉ざされてしまったという問題から立ち上がり、動いてきた。
しかし、最近では「多様性」という言葉を使えば「理解ある」ことを示せると思っている人がいる。また、それを分かりやすいようにアイコン化したりしている。
話は少し変わるが、先日読んだ朝日新聞にこんな記事があった。
はるな愛さんが性的マイノリティについて自身の思いを語っていた。そこでは、「全て分かっていなくてもいい。だけど、自分の物差しで誰かの可能性を封じるべきではない。今隣にいる人の考えを素直に受け入れて」といったことが語られていた。
「多様性」という言葉を使うとき、覚悟が必要に思うと前述したが、私は上手く「多様性」を理解できているのか、誰かを傷つけてはいないか不安だったため覚悟がいるように思っていた気がする。
以前、『「女性が活躍できる社会」に対するいくつかの違和感』という題でフェミニストになれない苦悶について書いたことがある。
だけど、誰もが生きやすい分、誰もが苦しんでいるなら主張よりも理解が必要となるだろう。
今、周りに居てくれている人を理解したい。