【三文ショート】マッチしました。
男は慌ててマッチングアプリを閉じた。画面の中に昔の恋人を見つけてしまったから。
曇り空を抜けて部屋に差す陽は、午後三時にもなると弱々しくなり、男の心情と同期しているようだった。
新しく住み始めた街で、そこまで親しくない知人と偶然出会ったような気分。
自分のいたずらを他人に見られたような気分。
他人の見てはいけないものを見てしまったような気分。
そんななんとなくバツの悪いときの、引きつった表情が胸の内側に浮き出てきていた。
LINEが普及し始めた時も、Facebookが流行っていた時も同じく男はアプリを閉じた。
興味本位で始めたマッチングアプリで見つけてしまった、恋愛を始めようとする昔の恋人は、他のSNSで見かけた時のキラキラした印象よりも生々しく感じた。
飾らないプロフィール写真、マッチングしたい意志を感じるつぶやき、32歳という年齢。そして男との相性、73%。
たったそれだけの情報で、生々しさを感じさせるには十分だった。
その生々しさがこれ以上iPhoneから滲み出て、身体に染みつかないうちに男はiPhoneを伏せた。
ベットで横になる男の傍に転がる目覚まし時計の液晶には23:28と映し出されていた。
男の胸の内には昼下がりの引きつった表情はなく、怖いもの見たさの野次馬のような表情が張り付いていた。
アプリを開き、画面をスクロールしていく。
少しスクロールしたところで一旦最上部まで戻り、検索条件を変えて再びスクロールする。
やはり生々しい。
他のアイコンと違って確実にそこに、その向こうに存在している。
遠くで鳴る踏切の警告音がわずかに聞こえる部屋で、男はhとaの混ざった、だらしない声を洩らした。
よく見ると、つぶやきの内容が変わっている。『今年は桜見に行けるかな?』
昼間見た時もアクティブユーザーを知らせるランプは黄色だった。
だけれどこの数時間で変化があるとは思っていなかった。
そのつぶやきの変化だけで、昔の恋人が普段からどれだけアプリを開いているのか想像してしまい、より一層存在感が増していった。
そのときランプが緑色に変わった。
男の胸はバスドラムを一回強く叩いたように鳴った。
見つかった。
その緑のランプが昔の恋人の瞳のように思えた。
男はまたアプリを閉じようとしたが、直ぐに冷静になった。
元恋人のページに入って足跡を付けたわけじゃない。こちらもログインしているが、検索に引っ掛からなければ向こうに表示されないはずだ、と。
まだ安全圏だ、と。
安全圏、そう思ったことに引っかかった。
マッチングアプリで見つけただけ、見つけただけだ。
それ以上の事はない。
見つけただけなのに少しでも何かを期待した事を認めた気がした。
いや、認めた。
その瞬間、男の胸の内に一気に寂しさと卑しさと、わずかな怒りを混ぜこぜにした濁流が押し寄せ、それを鎮める儀式のようにそっとホームボタンを二度押し、上にスワイプしてアプリを閉じた。
もう戻らないと決めた、あの日を無駄にしない為に。
まだ過去にするには早すぎる別れを惜しむように。
今しか見られない、触れられない日々を大切に過ごす為に。
男はアレクサにおやすみを伝えた。