人間の形にもどる
活字を3ヶ月半ぶりくらいにきちんと読んだ。私にとって本を読むという行為は、現実と折り合いをつけて、なんとなく空気と一緒になりそうな自分を元の形に戻すことなのだな、ということを実感した。
今までなんとなく蔑ろにしてきた諸々をきちんとやらなくては、やるべきことを遂行しなくては、という気にさせられる。
人に会うのも、オシャレをして家の外に出るのも、美味しいご飯を作って食べるのも、活字が足りていないと適当になる。なんとなく寝て、動画見てぼーっとして適当にご飯を食べて。こんなんじゃダメだなあ、もっとちゃんとしなきゃ、と思いながら何もできなくなる。
要は人らしい生活をうまくおくれるか、ということなのかなとおもう。
リズムをとるように三食刻んで、睡眠も毎日同じようにとった方が人間的な生活を送れるとは思うのだけれど、それは私にとって別にたいして人間であることに貢献してくれていない。
活字を読むということは、人間の特権だと思っている節があるからかもしれないけれど、活字に触れている間は、ああ、やるべきことをやっているな、と思う。デジタルでもアナログでもいいけれど、できればアナログがいいな、なぜかはわからない。
まあそもそも人間的な活動というのがなんなのかも甚だ疑問ではある。
人に飼われている犬はだいたい同じ時間にご飯をもらうだろうし、同じ時間にご飯を食べない人間もいる、私みたいに。もしかすると活字が読めてしまう動物もいるかもしれない。人間と動物の違いを断言するのは私には難しすぎる。
だからこれはあくまでも私の主観の話であるのだけど、主体的に文章を読むという営みは私にとって人間の形を保持するのに1番手っ取り早く、かつ効果的な方法であるということは確かなことであって、私は未だこれ以外に人間らしい営みをあまり手に入れられていない。
なんてことを伊藤計劃先生の作品を読んで考えたりしたけれど、あまりの文章力の差に頭を抱えている。書くことは好きだけど、脈絡がなくなってしまう。脳内とっ散らかってんだよな。
でも文章を書くのは楽しいんだ。