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【死にゆくということ2】hitomi
大切な人の死。
今までの当たり前が当たり前でなくなる瞬間。
だけどもしかしたら、明日からの「生活」が大きく変わるものではないかもしれない。むしろ、変わらないことのほうが多いのかも。
私は今までの人生で祖父母4人をみおくった。早くて23年前、最近では昨年の秋。みおくった年齢は違えど、次の日からの「生活」が大きく変わったかといえばそう大きく変わらなったような気がする。忌引きが終われば、学校に行き仕事に行きいつも通りの日常。
ただ、変わったことといえば生きていた時よりむしろ今のほうが祖父母のことを想うことが多い。本当に小さなきっかけで。
スーパーに並ぶ枇杷を見れば、「あ~じいちゃんいつも枝ごと持って帰ってくれよったなぁ」
野イチゴを見れば、「あ~ばあちゃんといつもジャム作りよったなぁ」
子供が生まれれば、「多分じいちゃんが生きとったらじいちゃんが一番喜んでくれたやろうなぁ」
漬物の時期になれば、「どれ食べてもあんまりおいしくないなぁ。ばあちゃんの漬物食べたいなぁ」
天気のいい日には、勝手口に座って涼むじいちゃんの後姿を。娘の髪を結べば、鏡台の前でばあちゃんが毎日してくれた三つ編みを。漁の時期になれば、黄色いニット帽のじいちゃんを。焼き魚の匂いがすると土曜日のお昼に台所に立つばあちゃんの後ろ姿を。
思い出す。
数え上がればキリがない。
今こうやって文字にするだけで涙が溢れる。
気付いてなかった。
大切な時間を過ごしていたことに。
当たり前と思っていたことが当たり前ではなかったことに。
『あなたはあと3時間後に死ぬと言われたら何をしたいですか?』
とある勉強会で聞かれたことがある。
「夫と子どもと一緒においしいご飯が食べたいな。」
そう思った。毎日食べているのに。
そして同時に言われた。
『それを考えると今からの生活が変わりませんか?』と。
『もっと人を、生活を大切にしようと思いませんか?』と。
死生観という言葉。
<やがて訪れる死を前提とし、どのように生きていくのかを考えること。またその考え方。>
だけど死感・生感と各々を分けた言葉はない。
生と死。決して切り離すことのできないもの。
生があってこその死。死があってこその生。
いつ来るともわからない大切な人との別れ。
ゆく人があればおくる人がある。
自分がゆく人なのかおくる人なのかさえわからない。
きっとどんな別れ方をしても満足なんてできないだろう。
たぶん今の私にはできない。
だからこそ日々の当たり前を大切にしていきたい。
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本当はおくる人の心理を書こうと思ったのだけど書いていくうちにここに着地しました。死にゆくということぽくなかったな。行き当たりばったりです。
それが私なので仕方ないか。。。
hitomi.