片山はるひ「ほんとうのさいわいはいったいなんだろう?」『カトリック生活』2022年8月号5-7頁所収)
このタイトルは、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の中で、
主人公のジョバンニが親友のカンパネルラに投げかけた問いです。
宮沢賢治の有名な童話のテーマは「ほんとうのさいわい」です。
今も変わらずに愛され続けているこの童話のテーマは、
現代世界に生きるわたしたちにとっても、根本的な問いを投げかけています。
同じ児童文学の世界で、この問いをより深く掘り下げているのが、ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』です。
この大作のテーマもやはり「ほんとうのさいわい」の探求であると言えると思います。
『はてしない物語』とバスチアンの冒険
物語は、バスチアンという少年の万引きの場面から始まります。落第生の上、でぶでX脚のため、学校ではいじめられているバスチアンの唯一の楽しみは本を読むことでした。ふと入った古本屋で、バスチアンは『はてしない物語』という本に出会い、その不思議な魅力をもつ本に心を奪われて盗んでしまうのです。お母さんを亡くして以来、お父さんは悲しみに閉じこもって彼を愛してはいるものの、以前のように接してはくれず、彼はその孤独を本を読むことでいやしていたのです。そしてついに彼は、授業をさぼり、屋根裏部屋に隠れて、『はてしない物語』を読むふけることになります。
二部構成になっている前半の内容は、この『はてしない物語』の内容です。そこでは、この物語の舞台であるファンタージェンという国が、危機的状況にあることが描かれてゆきます。読み進むにつれて、『はてしない物語』の世界とそれを読むバスチアンの現実世界が次第に錯綜してゆきます。そして、ついにバスチアンはその物語の中へ、待望されていた「救い主」として入ってゆく後半へと続きます。
汝の欲することをなせ
ファンタージェンに入ったバスチアンは、そこで女王、幼ごころの君から「アウリン」という宝のメダルをもらいます。メダルの裏側には「汝の 欲する ことを なせ」と刻まれています。
想像力の国であるファンタージェンでは、バスチアンが望むことはすべてかなえられてゆきます。惨めな少年であった彼の、「しあわせ探し」が始まるのです。まず彼は自分の容姿が美しなることを願って即座にかなえられ、次には密林の強き王者となります。
ただバスチアンが最初に出会った哲学者的ライオンは、バスチアンの探求の危うさを見とおして忠告します。
「『汝の 欲する ことを なせ』というのはぼくがしたいことはなんでもしていいっていることなんだろう、ね?」と気軽に問いかけるバスチアンにライオンは、「ちがいます。それはあなたさまが真に欲することをすべきだということです。あなたさまの真の意志をもてということです。これ以上むずかしいことはありません」と答えるのです。
そして、「この道をゆくには、この上ない誠実さと細心の注意がなければならないのです。この道ほど決定的に迷ってしまいやすい道はほかにないのですから」と注意をうながします。
そして、「それは、ぼくたちのもつ望みがいつもよい望みだとはかぎらないからなの?」と問いかけるバスチアンに、「望みとは何か、よいとはどういうことか、わかっておられるのですかっ!」と一喝するのです。(『はてしない物語 下』岩波少年文庫六八〜六九頁)
こうしてバスチアンの探求は、まさに「ほんとうのさいわい」の探求となってゆきます。
危険な道
バスチアンは勇気や知恵や学問や名声など、彼が願うあらゆる美質や、権力を次々に手にしてゆきます。望みが次々に手にしてゆきます。望みが次々とかなえられ、彼は「しあわせ」をてにしてゆくのです。だが彼が望むものを得るたびに、地上での記憶は一つずつ失われてゆきます。そして帝王として君臨するようになってからは、悪の化身である差イーでの誘惑の罠に落ち、ついに親友のアトレーユまでもを疑う疑心暗鬼の独裁者に変貌してしまいます。そしてついにバスチアンはアトレーユを刺し殺そうとします。
戦闘の果てに彼がたどりついたのは、「元帝王たちの都」、望みをすべてかなえられ、記憶をすべて失ってもはや現実世界に戻れなくなった幽鬼のような人々の住む場所でした。バスチアンは、そこで今までの望みとは違う「新しい望み」を探すようにと命じられます。
新しい望み
バスチアンの心の奥底に生じた「新しい望み」は「仲間が欲しい」という望みでした。次に出会った共同体に住む内に、彼はより大切な望みに気がつきます。「それは、ありのままで愛されたい」という望みでした。そして最後に訪れる母的な女性の「変わる家」でバスチアンは最も深いところにあった望みに気がつきます。それは、「自分も愛することができるようになりたい」というあこがれでした。女性は、「愛すること、それがあなたの真の意志なのよ」(同三五五頁)と彼に告げ、生命の水を飲みにゆくことを勧めます。
途中、バスチアンは鉱夫のところで修行をし、採掘抗に埋もれた絵の中から、自分が具体的に愛すべき対象、悲しみに閉じ込められている父親の姿を発見します。なぜなら、愛するとは抽象ではなく、具体的な対象に向けた行為でなくてはならないからです。
生命の泉
そして、ついに、バスチアンは生命の泉にたどりつきます。泉の水は、「飲め、飲め、汝の 欲する ことを なせ!」と招きます。
泉の方へ進むにつれて、バスチアンがファンタージェンで得たすばらしいものは、一つずつ消え失せ、彼はもとの気の弱いただの少年に戻ってゆきます。そして、一糸まとわぬ裸になって生命の水に飛び込むのです。
バスチアンは、ためらわずに水にとびこんだ。(…)飲んで飲んで、渇きがすっかりおさまったとき、体中に悦びがみちあふれていた。生きる悦び、自分自身であることの悦び。自分がだれか、自分の世界がどこなのか、バスチアンには、今ふたたびわかった。新たな誕生だった。今はあるがままの自分でありたいと思った。そう思えるのは、何よりすばらしいことだった。あらゆる在り方からひとつを選ぶことができたとしても、バスチアンは、もうほかのものになりたいとは思わなかっただろう。今こそ、バスチアンにはわかった。世の中には悦びの形は何千何万とあるけれども、それはみな、結局のことろたった一つ、愛することができるという悦びなのだと。愛することと悦び、この二つは一つ、同じものなのだ。(『はてしない物語下』三九〇頁)
アウリンの裏側に刻んであった言葉は、実はアウグスチヌスの有名な言葉の一部です。前文は、「愛せよ、そして汝の欲することをなせ」(『ヨハネの手紙講解』7・8)です。この言葉の本当の意味に至るまでの道のりがバスチアンの心の旅でした。
この度は、わたしたちに「ほんとうのさいわい」を探すための道しるべを与えてくれるように思います。バスチアンのようにわたしたちは、「さいわい」を自分にかけているものの充足に求めがちです。バスチアンが学んでいったのは、その充足を求め続けることのむなしさと危険性でした。そしてその中で忘れられていったのは、弱く貧しい自分のありのままの姿と他者への愛でした。
さいわいなるかな
実は、「さいわい」という言葉は、「祝福されている」ということを表しています。マタイ福音書五章で描かれる真福八端の最初の「さいわい」は「霊において貧しい人」に向けられています。霊において貧しいとは、「自分の貧しさを知り」それゆえに、「神に信頼している」人のことです。
悲しみを知り、柔和であり、義を求め、憐れみ深く、心が清く、平和をもたらす人とは、愛することを具体的に行っている人です。愛そのものである神との関係をもつには、わたしたちのうちに愛がなくてはなりません。結局のところ、リジューの聖テレーズが言うように、「大切なのは愛だけです」
さまざまな冒険と試練の果てに、「愛することの悦び」を得た、バスチアンは「ほんとうのしあわせ」についに出会うことができたようにおもいます。
『銀河鉄道の夜』の中で、ジョバンニは、カンパネルラに「ほんとうにみんなの幸(さいわい)のためならばぼくの体なんか百ぺん灼いてもかまわない」(『銀河鉄道の夜』角川文庫、二三五頁)と語り、カンパネルラは『誰だって、ほんとうにいいいことをしたら、一番幸(さいわい)なんだねえ』(同一九三頁)と告げるのです。物語の終わりにジョバンニはカンパネルラが友だちのザネリを救うために川に飛び込み、不帰の人となったことを知ります。みんなの幸いのために、みずからを投げ出したイエスの「幸い」こそ、少年たちが探していた「ほんとうのさいわい」であったのかもしれません。
イエスの祝福は、イエスを知らない人々の心にも豊かに注がれているのです。
※本記事はドン・ボスコ社の許可をいただき、『カトリック生活』の過去の記事を掲載しております。