Genesis05「これはアダムの歴史の記録である」
創世記5章は、家系図の章である。
アダムの子孫の名前と、何歳まで生きたかということがひたすらに記されている。
ここを読んで、皆で話し合って何が見えてくるのだろうか……と少しの戸惑いを覚えた。
そのとき、ふと、以前ここの章を読んで図を描いたことを思いだした。
その頃、私たちはあるプロジェクトを教会で行っていた。
毎月、とあるテーマについて話し合いながら過ごす小さな集まりである。
「なぜ、教会に毎週通わなければならないのか」
たった三人の小さな集まりで、週ごとにやることを決め、たこ焼きをつくって食べたり、子ども賛美歌を歌ったりして午後を過ごしていたのだが、そのプロジェクトの最も大きな命題がそれだった。
それは当時、教会に行かなくなった友人をお好み焼き屋に誘い、問いかけた私に、彼が答えたことばだった。どうして、教会に通う必要があるのかわからない――。
彼は、日常生活で神を意識することもほぼないと言った。祈ることもないと。
だが興味深かったことは、「祈らなくても、神は心の中を知ってくださるから」と続けたことである。彼は神を求めることや、知りたいと願うこと、教会に通うことの意味がわからないと言った。そして、私はその正直さに感服したのだ。
そして私たちは、その疑問を毎月話すために教会に通う、という契約書を交わした。 二階にあるお好み焼き屋の座敷で、鉄板の焼ける音を聞きながら。
そのプロジェクトの中で行ったことのひとつが、ここに書かれている文章を図にしていくことだった。大学生の使うようなレポート用紙に、生まれた年と年齢を鉛筆で書き加えていく。
そうして、アダムからノアまでの図が完成したとき、隠されていた秘密が目の前に現れたのだ。
ノアの箱舟はとても有名な物語だ。
動物たちが木の舟に乗っている絵本や飾りを見たことのある人もいるだろう。
それまで私は、なぜノアはこんなにも大きな物語の主人公に選ばれることができたのだろうかと不思議に思っていた。そしてぼんやりと、きっと立派な人物だったからに違いないと。だがそれは、自分は選ばれるはずがないということでもあった。
しかし、図を見たとき目の前に現れたのは、もっとはっきりとした理由であった。
ノアは、アダムを知らない最初の世代だったのだ。
この章は「これはアダムの歴史の記録である」と始まる。
アダムは神から食べてはいけないと命じられていた「善悪の知識の木」を食べ、エデンの園を追われ、生涯働かなければいけない人生となる。神に従うとは、神に守られることでもあった。それに反した結果であった。
もしかしたら、アダムは生涯、子や孫たちにエデンの園がどのような場所であったかを語ったのではないだろうか。いつか帰れる日を願いながら。そして、神の命令に従うことの大切さを、身をもって示したのではないだろうか。
生まれた子は皆、長老であるアダムのもとへと連れてこられただろう。
祝福を祈ってほしいと願われて。
だが、戦争を体験した世代が失われていくように…
アダムもその生涯を終える……
アダムが死んだとき、それを見た人々は衝撃を受けたことだろう。
それからエノクがいなくなり、次にセツが死に、
神に背くことの恐ろしさを知らない世代が増えていき、
そして、子孫たちは知ることになる。
いつか、自分たちもあのように死んでいくのだ、と――。
そんな中、アダムを知らない最初の世代、十代目のノアが誕生したのだ。
恐怖と絶望の中で、それを慰めるかのように。
「この子は、主がのろわれたこの地での、私たちの働きと手の労苦から、私たちを慰めてくれるだろう」
そして五百年の間、ノアは、アダムの子孫が死んでいくのを見届けることになる。
エノシュ、ケナン、マハラルエル、エレデ……。一人またひとりと亡くなっていく。
そうして、祖父メトシェラと父レメクだけになってしまった。
神がつくった最初の人アダム、彼が死んだとき、神にとってこの世界は死んだも同然だったのではないだろうか。
このまま緩やかに世界は朽ちていく。
ノアが神に従わないのであれば、この世界をこのまま終わらせよう。
そう神が思っていても不思議ではなかったと思う。
だからこそ、失っていくだけの五百年が過ぎたのだ。
「ノアは五百歳になった」
だが、ついにノアの子たちが生まれる。
セム、ハム、ヤフェテが誕生する。
それは、五百年ぶりとなるアダムの直系の誕生であった。
「ノアは、ポストアダムじゃないかな。これから、ノアによって新しく何かが始まる感じがする」と、ひとりのメンバーが言った。たしかにそうだ。
今、何かが始まろうとしている。
これは、エデンを知らない世代の新たな物語の幕開け。
神を知らずに生まれた私たちの物語なのだ。
私たちは、自分の能力に目を向けがちである。
だが、いのちがつづいていく中に、自分が存在し、
私たちはそれぞれ、選ばれて今の場所に生きている。
それは、アダムとノアにつらなる道なのだ。
追記:数年前に「なぜ教会に行くのか」を探していた私たちのプロジェクトはその年の終わりに終了した。
つい先日、彼は妻と幼い息子が写る献児式の写真を送ってくれた。
そこは十字架のかかる美しい礼拝堂であった。
©新改訳聖書2017