この世界は自慰行為の産物である。
現代科学によると、脳によって私たちが今感じている世界が作り上げられている。
つまり、私は赤いと思っているものと、隣の人が赤いと思っているものが、同じ色だとは限らない。
私は私の脳の中で生きていて、この世界は、映画のマトリックスのような世界であってもおかしくない。
そして、それは私達には判別のしようがない。
「世界の構造」は、課題設定として、適切ではないのだ。
自分が感じたこと。
例えば、隣の人がクスリと笑ったとして、その行為でどのような感情を得るかは、結局のところ、「自分次第」だ。
――自分が馬鹿にされたと思った?
――何か思い出し笑いをしているだけ?
馬鹿にされたと思って、不愉快な気持ちになったとしよう。
他人の行動によって自分の感情が誘起され、「不愉快になったのは他人のせい」だと感じる…のが、一般的な反応なのかな。
「隣の人のせいでイラっとした」。そう感じるかもしれない。
だが、これは、隣の人の行動によって、自分の中にある感情が動いて、「イラっとする」という形で表出しただけなのだ。
自分に自信がない。そういった気持ちを持ちがちな人は、隣の人の行動でイラっとするかもしれない。
一方、自分に自信がある人は、隣の人の行動を見ても「何かご機嫌なのかな?」「良いことがあったのかな?」と感じるだろう。
つまり、自分の感情のベースによって、同じ出来事が起きたとしても、世界が違って見える。
私が自分の世界を作り上げているのだ。
だとすれば、世界を変えるのは簡単。
自分を変えればいい。
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とても寂しいとしよう。
隣に、淋しさを埋めてくれる人がいるとしよう。
それで「嬉しい」「心が温まった」と感じる。
その行為は、自慰行為である。
他者を自分を埋めるための”手段”として使っているから。
別に、自慰行為でも良いんだと思う。
人間って、基本的にそういうものだから。
でも、私はなんだかそれに違和感があって、自分なりに探究を続けてきた。なんとなく、自慰行為は虚しいものだから。
一種の依存・共依存関係にある、と言えるかもしれない。
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自慰行為から抜け出して、健全な人との繋がりを築くためには、自分の不足は自分で埋める必要がある。
自分は自分で満たされている。幸せである。
そういう状態であったら、人との関わりは、何の依存関係でもなく、それは自慰行為にはならない。
でも、きっと、こんなことをしている人は多くはないと思う。
実際、私も、満たされずに喘ぐ人生だった。人生の9割9分、そうだった。
今朝、はっとこういうことに気づいただけなのだ。
そして、自分の孤独を自分で埋めようとする気概の人は、あまりいない、と人から言われた。
だから、この世の中は自慰行為の産物なんだと思う。
だから、歪み、なんだかうまくいかない。
私は、自慰行為から抜け出したい。
そう思いつつも、まあなかなか難しいよねえ、と人間を数十年続けてきた身として、感じざるを得ない。