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君のためにコーヒーを
君のためにパンを焼く 顔中真っ白になりながら
(中略)
好きならしょうがない
という歌があります
以前の私の解釈は、
少し諦めにも似た感覚であるものと考えていました。
今朝になって思ったことは、
それらが生活や生き方の一部に含まれていて、
他にやりようが無い、不可避な日常に組みこまれているのかなと考えています。
我が家には週末にコーヒーを豆から挽いて淹れるイベントがあります。
このコーヒー担当は私です。
妻のリクエストを受けて始まったこのイベント
私自身、当初は自宅でコーヒーを挽く、非日常にワクワクしていましたが、重ねるにつれて飽きていました。
ただ、妻が起床してニコニコしながらコーヒーを飲むことを想像すると、辞めることもできない。
なんとなく日常の習慣が変わり、
金曜日の就寝前にコーヒー豆、ミル、フィルター、ポットを台所に用意する。
そうすると、土曜日の朝に面倒だなと思うことも無い。
自分で自分の行動ルートを決めてるんだから。
ここから、敢えてコーヒーを淹れずに一式を棚にしまうなんで、やるはずがない。
目が覚めて、すこしぼんやりした頭で豆を挽き、手動ミルの振動で目が覚めてきて、抽出が終わる頃にはすっかり覚醒している。
覚醒しているけど、淹れたてのコーヒーでさらに目を覚ます。
台所から離れて、本を読んだり、家事をしたり、そうしているうちに妻が起きてくる。
起きて早々にコーヒーを一口飲む。
「うむ、美味しいね」
この一言が聞けるだけで、私は大満足。
他にやりようがあるだろうか。
これが、今の私の日常であって、諦めているわけではない。
しょうがないのである。
君のためにコーヒーを挽く。