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20世紀最大の悲劇の一つ。想像を超える恐ろしい場所

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ポーランド共和国 南部の都市クラクフ。
クラクフは17世紀のワルシャワ遷都まではポーランド王国の首都であった、ポーランドで最も歴史のある都市の一つ。現在でも中心的な都市となっており、歴史的な建造物も多く残っている。美術館や博物館などの施設もあり、チャルトリスキ美術館にはレオナルド・ダ・ヴィンチの「白貂を抱く貴婦人」が所蔵されている。
そんな魅力的な都市には20世紀最大の悲劇の舞台とされる負の遺産が今も残されている。

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アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所とは

第二次世界大戦中、アドルフ・ヒトラー率いるナチス・ドイツがおこなった人種差別による絶滅政策(ホロコースト)および強制労働により、最大級の犠牲者を出した強制収容所。
アウシュヴィッツ第一強制収容所は、ドイツ占領地のポーランド南部オシフィエンチム市(ドイツ語名:アウシュヴィッツ)に、アウシュヴィッツ第二強制収容所は隣接するブジェジンカ村(ドイツ語名:ビルケナウ)に作られた。ユネスコの世界遺産委員会は、二度と同じような過ちが起こらないようにと願いを込め、1979年に世界遺産リストに登録した。

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ドイツ・ポーランド・チェコスロバキア(当時)などにたくさんの収容所が存在し、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所を中心に線路が広がっていた。収容されたのは、ユダヤ人、政治犯、ロマ・シンティ(ジプシー)、精神障害者、身体障害者、同性愛者、捕虜、聖職者、エホバの証人、さらにはこれらを匿った者など、多くの人々が選ばれた。1943年にはアウシュヴィッツ全体で14万人が収容されている。

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ここへはクラクフからバスで1時間30分ほど。
現地にはオプションでガイドをつけることができ、日本人のガイドもおられるのだが、一名のみのため予約がかなり困難である。

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入口には有名なARBEIT MACHT FREI(働けば自由になる)のスローガンが掲げられている。実際に待ち受けるのは過酷な労働と死であった。

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周辺には鉄線が張られている。当時は約220ボルトの電流が流され、収容所の過酷な環境に耐えられなかった人は、鉄線の電流を利用し自殺したとも言われている。

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現在では内部は博物館となっており、当時の資料や設備などの多くが展示されている。その中には洋服や髪の毛など生々しいものも残されている。

過酷な環境での生活

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夏は最高37度、冬は最低マイナス20度になるほどの過酷な地であるが、住環境は非常に劣悪であったとされる。第一収容所はポーランド軍の兵営であったため暖房設備は完備されていたが、収容所として利用された時には薪などの燃料は供給されなかったと言われている。掛け布団は汚れて穴だらけの麻布のみであった。

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第二収容所は小屋の様な非常に粗末な作りで、ポーランド軍の馬小屋であったものなどを活用されており、汚水は収容者が敷地内に溝を掘って流した。
こうした劣悪な場所に老若男女問わずに押し込められ、強制労働や人体実験などに駆り出された。今、日本に暮らしている中では想像も出来ない様な苦しみがこの場所にはあった。

大量殺害と人体実験

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ナチスは多数の人々を一度に殺害するため恐るべきガス室を作った。これは容易に殺害を行う目的の他に、執行者の精神的負担を軽くするためであったとされる。
収容者はシャワーの時間であると服を脱がされガス室にまとめて入れられた。そして閉じ込めたのちにガス缶によって殺害、近くには火葬場があり遺体を「効率よく」処理するためのルートがあった。

ドイツ人医師たちは、被収容者をさまざまな「人体実験」実験の検体として扱った。カール・ゲープハルト、エルンスト・ロベルト・グラーヴィッツ、ホルスト・シューマンらはスラブ民族撲滅のために男女の断種実験を、ヨーゼフ・メンゲレは双子や身体障害者、精神障害者を使った遺伝学や人類学の研究をおこなったとされる。ほかにも新薬投与実験や有害物質を皮膚に塗布する実験などがおこなわれ、命を落とした者は数百名に及び、生還できたとしてもその多くには障害が残ったとされる。

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第11棟にある中庭には、連れ出された死刑囚が銃殺された「死の壁」があり、今でも花が手向けられている。

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中庭には遺体を吊るした台や首吊り台なども残されている。

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多くの収容所からここへ繋がっている……。「アウシュビッツへ行く」ということは「死」を意味していたとされる。まさに人生の終着点であった。

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人々はコンテナに詰め込まれて運ばれた。

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破壊されたガス室や焼却炉が多く残る。これらの瓦礫跡はドイツ軍の敗退が濃厚になったと分かった際に、虐殺の証拠を隠滅するため破壊したものである。

残された日記

「アンネの日記」の原作者アンネ・フランクも両親や姉を含む隠れ家生活での同居人達とともに移送され、アウシュヴィッツに2ヵ月間収容される。そして再移送先のベルゲン・ベルゼン強制収容所でチフスを患い1945年3月頃死亡した。
アンネの日記は、彼女とその一家が暮らした、第二次世界大戦中のドイツ占領下であったオランダ・アムステルダムが舞台。ユダヤ人狩りを避けるため、息を殺して隠れ住んだ生活を描いたもので、密告者によってゲシュタポに捕らえられるまでの2年間を記している。

風化させないために

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ポーランドでは、その歴史を忘れないために当時の資料などの展示をおこなっている。ナチス・ヒトラーをタブー視するドイツとは随分と扱いが異なる様だ。

ポーランド

ポーランド1

ポーランド2


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