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思考することば、書くことば。

ここ数日家に居続けており、時間はたっぷり確保しているのに、書かなきゃならないものがちっとも進まない。

テーマを設けて調べて発表したり、きちんと文章にまとめるのが実はとても苦手で、ぎりぎりまで逃げまくる方だ。
特に、韓国語で考え、韓国語で発表し、韓国語で書くのを、いまだに負担に感じている。不必要に苦手意識があるのかもしれない。

もはや日常は韓国語で情報を得て、韓国語で会話する方が多い。でも、思考することばはどうしてもほとんどが日本語だ。
ことばを通して身の回りのことや社会問題を認識しているので、時事問題について誰かに伝えたりコメントしたりするのは、当然韓国語の方がしやすいし、自然とそれが増える。
しかし、時事問題をとらえることと、それを自分のなかに一回落とし込んで疑問や答えを探してみたり、怒りや感動、共感や反感などの感情も踏まえてことばに組み立てなおすのは、かなり違う作業のようだ。

情報をインプットするのはさすがにもう韓国語のままですんなり入ってくるようになったので(以前はそれすらも頭のなかでいったん日本語に置きかえないとうまくとらえられなかった)、情報の整理という次元で韓国語でアウトプットすることはできる。

ただ、それをめぐる「思い」を強いてことばにするときは、まず日本語→韓国語に置きかえ、という作業を頭のなかでやっている。その途中でこぼれおちてしまったり、借り物のことばになってしまうことが多い。

願わくば、韓国語で思考し韓国語で組み立てることをスムーズにできるようになりたい。
そのためには、もっといっぱい読んで書いて、書いて読んで…を、とことんするしかないのだろう。

そのうえで、自分にとっては、日本語で思考して書くことばと、韓国語で思考して書くことばは、本質的に違うなと感じる。

あえて言えば、日本語は皮膚で、韓国語は下着みたいな感じか。もはや毎日ほとんどの時間身に着けていて自然になったけれど、もって生まれたものではないから「着けている」という感覚は離れない、というような。
そういう感覚も、大事にしておきたいなという思いがある。

そんなことを息抜きにタラタラッと書くことはできるのに、肝心の書かなきゃならないものの文字数は一向に増えない。
たっぷりあったはずのここ数日の時間は、ストレッチとかウォーキングとかにすっかり費やされてしまった。