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わかったとはなんぞや
夜明けが早くなったものの、少々薄暗い時間に目が覚めてしまい
猫ちゃんのご飯を補充したら「こりゃもう眠れないよな」と自覚してしまったので、本を読み始める今日のスタートでした。
年末、職場の図書館から借りて「どうしても読み切れないけど面白そうな一冊」を返却期限で読み途中で返してしまったものの
結局自分で買いなおしてじっくり読んでいた本があります。
「目の見えない方と、美術館を巡る」という内容ですが
とても深い。
読みながら「自分の中にある偏った捉え方」が白日の下にさらされて気まずい感情が沸き上がったり、他者はわかりあえないということを自分に落とし込むことの難しさなど…朝から真の自分にゲンナリ。
何かが不自由な人は「別の感覚が鋭い」という私は自然に思い込みをしていました。例えば目が不自由な方は、聴覚や触覚が鋭い。みたいな。
この本の中で白鳥さんが発したことに私は
「そういう人もいるけど、そうでないことだってあるよな…」
なんか恥ずかしくなりました。
あと、目の見えない人の感覚を体験(目隠しなど)をした人が
「目の見えない世界ってこんなに不自由だとわかりました」
そんな言葉に対して、「そんなんでわかった気になっているのは違う」という話が出てきます。
相手の世界なんて「わかる」なんてことは全くない。
私も非常に痛い思いをしているはずで、「分かり合えることは難しい」と思っている、けど本当にそれは自分でわかっていただろうか。
同じ様なことを体験したとしても、あくまでも”一瞬の経験”で
それが365日、人生の長い時間ずっとそれがデフォルトという方のことを「わかった」とは到底言えないわけです。
私の生業も「その人の話を聴き、その人のことを味わい尽くす」と言われていますが、目の前の方のほんの、わずかなことしか「知れて」いないと思っています。わかった、とは言えません。
とはいえ知った状態を一つ間違えると「わかった」「理解した」と言いそうになってしまうことも。
そうならないようにしているのですが、絶対とは言えません。
そんな傲慢な自分を朝から見つめて、気を引き締めていかねばとこの一冊からしっかり受け取りました。
いやぁ、本を読む時間をとることは本当に大事だと感じさせられました。
少しでも毎日時間をとっていきたいなぁ。