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私の死に様

私が、おじいちゃんが死んで骨を拾いながら決めたことがあります。

それは私が死んだ時に「幸せそうだった」「楽しそうだった」と笑ってもらえることです。

死に様を決めると、ゴールから逆算して、生き様が決まります。

そこから、私の生き方は徐々に自分にとっての幸せを感じる生き方にシフトしているように思います。

なぜ死んだ後にそう思われたいのかというと、私が生きてる時に関わってくれた方に「満足そうに生きられてよかったね」「おつかれ笑」って、安心して気楽に見送ってくれたらいいなって思うからです。

そういう風に思われたらいいなって目論んだきっかけは、おじいちゃんが死んだ時の私がふと思った疑問です。

そもそも大往生だから考えることもシンプルだったのだけど、「おじいちゃんの人生、幸せだったのかな?」ってふと思ったからです。

おじいちゃんが、私に対して何をしてくれたのか、どんな功績を残したのか、どんな人柄だったのか、どんな行いだったのか・・・
そういったことはどうでもよく感じて、本人が幸せを感じて生きていたのか?それが気になりました。

私、コミュ力低いから、ちょっと分からなかったんだけれど、幸せな人生だったとか、楽しかったとか、充実してたとか、なんか自分的に満足してくれてたらいいなって。

例えば、しょうもない性格でも、人に迷惑かけてても、本人は超幸せで溢れてるんだったら、大往生って笑って見送れそう。

わがままになる必要はないけれど、なにかいいことをしなきゃって焦らなくても、大きなことをしなくても、むしろ小さなことも楽しめて、幸せを嚙み締められる性格だったら、
それが楽で楽しい生き方なんじゃないかと思う。

私が死ぬとき、誰がどう見ても、ああこの人は楽しそうで幸せそうに生きてたよねって伝わるといいなって思ってる。
それが正しいということじゃないんだけれど、私の意向としてそうあったら美しいという価値観なのかな。

だから私は、自分にとっての幸せは何なのかを知ってること、幸せを感じる力があること、幸せが溢れるくらいに満たすことを心掛けています。

その甲斐あってか、ちょっとずつ、私の幸せオーラに影響してもらえる人が増えてきました。

「いつも幸せな方を選ぶ」「会うと心が軽くなる」「人生楽しそう」「サラさんの幸せ論を聞いて考え方が変わった」
そんな風に言ってくれる人が出てきたのは、驚きでした。

私の奔放な性格が、自分勝手なのかもしれないと思うこともある。

けれど、人に迷惑や心配をかけることよりも、自分を満たして幸せを溢れさせていくことに注力していくのが、死ぬときにいいと思える生き方だと信じています。

未熟ではありますが、それが私の今のところの生き様なので、少々の勝手をお許し下さい。


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