形而上学の1ページ目には「我々は形而上学を持っている」と書かれていなければならない
「なぜ何もないのではなく何かがあるのか」を神秘とするなら、「瞬間瞬間において、おそらくうまれたときからすでに、世界は分節可能なものとしてあらわれている」ということが最大の神秘であるように思われる。
そしてこれは明らかに神秘でもなんでもない(われわれがまさにそういうように「世界」なるものを分節するということでしかない)。
世界でないものを想像できないというのはおそらく非論理的なものを想像できないというのよりもおそらく根本的ではないか。
非論理的なものは非論理的なもの(不可能なもの)として想像できるが、世界でないもの・世界にないものはまったく想像の手がかりすらない。
形而上学には何かしらの実存が必要であり、外延には何かしらのいわば置き場が必要(存在論)。
「なぜ何もないのではなく何かがあるのか」という問いは「これこそが無である」という可能性をみていない。
意識とか心とかをありがたがるのは結局のところすべての「原因」としてのそれを、「我々は意識とか心とかいうすごいものを持っているのだ」と(いわば単に目につくものを)ありがたがってるにすぎんような気がする。より高次の(?)ものはそもそもそんなものを大したものとはみなさんかもしれん。
人間の行動を決定するのはいわゆる意志心意識だけではないのはもはや自明と言ってよい。
システムのなかでたまたまうまれた反省・思考が可能な何か、それが世界の「因果の湧き出でる泉」にみえるから特別と思っている。
ではなぜ「因果」を含むルールや体系が「必要と思われる」のか、というのが哲学の意味。
「存在」と倫理は同時同根源(現れとして)。
何かが与えられるとき、それが別様でありえたこと(つまり、別様であること)も同時に与えられる。
生きていくこともできるし死ぬこともできる、というこたえ。
形而上学を可能にするもの、ことばとか思うこととか考えることとか「歴史」なるものとかそういったもの、そういったものそのものは「存在」にはかかわらない。存在するということは法則や基礎などなどを単に超越している。
われわれは形而上学を持っており、それはあらゆる存在の置き場である。
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