本性なるもの
ひとのイヤな面をみたとき「このひとの本性を見てしまった」と思わないことは難しい。いい面もイヤな面もぜんぶひっくるめてそのひとの振る舞いの総体そのものがそのひとや思うことは難しい。
でも冷静に考えるとそれでいいとも思う。そのひとのイヤの面をみたそのとき「本性を見てしまった」と思うことじたいは悪いことではないと思う。それはジャイアンが映画ではいいやつに思えることと表裏のはず。
大事なのはそのときそのときで評価を変えてもいいというまさしくそのことやと思う。何かを振る舞いの総体そのもので評価しようとするなら、自分もそうあるべきやし、評価基準のようなものもそうあっていいと思う。「何かを振る舞いの総体で評価しようとすること」が(簡単に)理解可能やと思うことそのものがカテゴリーミステイクやと思う。それは理解可能やとしても理解が必要なたぐいのものではない。
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