花の美しさ(ぼっちざろっく最終話みた)
ぼっちざろっく最終回みた。よかった。よかった。
アンチクライマックスというか、そもそもピークを最終回にもってこんのがすごいうまかった。よかった。泣かせにきてない。奇をてらってそうしてるんじゃなく、まさに最終話で泣かせにこないっていうそのことでやってることがある。それがすごいぐっときた。よかったほんと。
ライブシーン、「ここ!」って場面がない。弦が切れたときはほんとに焦ってるし、ボトルネックで乗り切るところも弾いてるぼっちちゃんそのものはかなりあっさり映してる。ソロが終わったあと見上げてるのも感慨らしい感慨ってわけでもなく、会場とぼっちちゃんの息とフィーチャーされる場面でもモノローグがない。「なんとなく」そのものを、風景として、得も言われん雰囲気を見せてる。
決定的なのはやっぱダイブ。あれでドサーッと落ちるとこが、キレイに終わらせないってとこが、何気ない、うまい(そのあと、知らない天井のパロの10話をさらにセルフパロっていうのも凝ってる)。余韻はあるけど、しつこくなくさらって終わって、そのあともふつうの話みたいに進む。ぼっちボーカルもなんかなんとなく始まって、声もよれよれで。で、最後は1話から繰り返される同じ構図で。ギター背負ってぼっちでぽつぽつ歩いてて、「今日もバイトかー」。
わたしは人生においてピークをもってこようとするようなのが好きじゃない。だからイベントも記念日も嫌いやし、そういうのはなるべくなんもないようにしてる。ピークがあると、そういう特別な何かがあると、なんかほかのなんでもないときがそういう特別な何かに従属させられてるような気になる。それがイヤ。ほんとうに祭りが楽しいなら妥協せずまいにち祭りやれって思う。ピークを設定してもイベントを設定しても、ほとんどの時間はそれとは関係ない。そういう長い時間をこそ楽しくいたい。
で、後藤ひとりも、そういう盛り上がりを嫌ってる、避けてる、苦手としてる。「みんなでなにかやる」っていう流れが好きじゃないキャラクターとしてかかれてる。
作劇上「でもライブとか学園祭とか楽しいよね? 視聴者のみんなもそこを期待してるよね?」っていうのは排除できない。そのことをわかりつつ、後藤ひとりも実際ある意味ではそこを本当に楽しみにもしてるっていうふうになってるけど、完全に乗りきれるわけじゃない。どっか全身全霊つっこめんようなところがある。っていうふうになってる。そこをすんごいうまいこと処理してる、見せてる。
そのうえで、最終話としていちばん見せようとしてるのは後藤ひとりの「ぼっちちゃん」としてのさまなんやってな。盛り上がってるとこはちゃんとかきつつ、いちばんの重きは「ぼっちちゃん」にもってきてる。ライブシーンをキレイに終わらせんことで、後藤ひとりのぼっちたる所以をうまく出してる。
わけわからん調子の乗りかたして、ひとがイヤで、でも友達とかギターとか好きなもんは好きで、認められたくて、気がつくとあたりまえのようにひとりで。そういうぼっちちゃんを時間かけてかいてる、見せてる。
けっきょくそれが大事なんすよ。けっきょく「ああ後藤ひとりってこういうひとなんやな」ってのが大事。いちばん大事かもしれん。みんなでうぉー、やったー、よっしゃー、なんかほんとはどうでもいい。そういうのはみんないっしょやし、それに乗れたやつが楽しいだけ。でもそうじゃない。そういうピークとかイベントとかとは離れた、長い長いあたりまえのふつうの時間。それがそのひとなんすよ。それをみたいんすよ。カタルシスなんかいらん、これがこれそのものなんや、これが『ぼっち・ざ・ろっく!』じゃっていう意志を感じた。
(どっちかっていうと学園祭は喜多ちゃんのものって感じがした。ギターすげーうまくなってるし。喜多ちゃんのギターうまくなってる描写は「おっ」ってなった。うもなりすぎやろ(こなれすぎやろ)とは思ったけど、ちょっと。あと家族。家族の理解。お父さんはセリフ長かったけど、お母さんとぼっちちゃんはほぼ表情だけで語るのが。うまかった。構図とふたり・ジミヘンの動きで飽きさせんのもうまい。)
「ぼっち描写はリアルやけど、起こってることはファンタジー」っていうのが少なくとも途中までのぼっちざろっくのキモやったと思う。でも、後半にかけて、特にこの最終話で、起こること自体も起こるべくして起こってることになってるというか。ファンタジーで築いたものを土台にして、そのうえで後藤ひとりを見せる、みたいな。そういうふうなつくりになってる。だから、ある意味では後藤ひとりはまったくなんにも成長していない。ただ運に人に恵まれただけで、なにかひとつ違ったらどうしようもない救いようのないぼっちになっててもおかしくない、そういうひと。
でもそれでいい。ぼっちちゃんは運に人に恵まれたんやで。成長なんかせんでもいいんや。人に運に恵まれて、その恩寵に浴して、そのぶん幸せで、だから本質のところはなんも変わってなくて。それでいいんや。どうにかこうにかなる必要ない。ただその恵まれた運のなかでひとのなかで生きてればいいんや。何かが誰かのおかげなら、その誰かあってこそで当たり前なんや。
相変わらずのぼっちちゃんでいい。相変わらずのぼっちちゃんがみんなといていろいろしてるとなぜか輝いて見える、その縁のなかで幸せなのが見れたり見れんかったり、っていう、それこそがみたいんもんなんや。
最後の1話と同じ場所でぽつぽつ歩いてるシーン、あの一瞬がその変わらなさと幸せとを教えてくれてる。やることだけが人生で、かつまたそれを支える文脈こそが人生やということ。
夏休みも学園祭も終わりがくる。毎日は「今日もバイトかー」なんやってな。あの絵とあのセリフでそれが毎日やってことを言ってる、そこで感じさせる毎日こそがぼっちざろっくのクライマックスなんやろと思う。5話でも8話でも最終話でもない、それを支える毎日こそが大事なもんなんや、っていう。最後にピークを外すっていうまさにそのことによって、それをやってる。だからこそ、その毎日を、ちょっと逃げ出したくなるかもしれんような毎日を、かけがえなく、愛おしく思える。いい。よかった。よかった、ぼっちざろっく、すごく。
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