このそのもの

 意識(awareness、あるいはそれをもった何か)はおそらく自分を客観的にみるためのもの、あるいはそれが主たる機能で、そもそも一歩ひいてるっていうのが本質。そんなものが自分を支配する主なものであるはずがない。「これ」が意識だからといってそれが自分そのもののわけではない。どっちかっていうと意識っていうのは自分にとって初めての「誰か」(ひと)であるってことに意味があるやろう。

 意識もいろんなもんのよせあつめであって、ひとつのもんではない。ただし注意のむけさきの決定権においてはなかなか大きい。

 意志が成功裡にその意をとげるときのありかたという意味ではデイヴィドソンの意志論は正しそうやし、基本的には言語ゲームのなかで役割を持つ機能でしかないという意味でアンスコムの意志論も正しい。でもデイヴィドソンはけっきょく「それは意志(意図であれなんであれ)でないとダメなんか」ってところにこたえてくれん気がする。そういう話じゃないというか(言ってしまえば結論ありきというか)。

 意味単位みたいなアイデアが考えられそう。意識は主に意味単位にのみかかわり、あとの細かいところは意識以外の部分が勝手にやってくれる、みたいな。まあ都合のいい考えかたやろう。

 意識は端的にそこまで支配権をもってない。意識はからだの機能のひとつで、からだはいきものの歴史・地球の環境のなかにある。

 でも、技術の進歩で意識だけを抜き出せたらどうなるんか。肉体に依存しないそれこそ自分なんじゃないか。仮になんらかの技術で意識がまったく途切れずに肉体以外の物理的基盤にうつしかえることができるようんなったとして、そのときうつしかえられたそれこそ自分なんじゃないか。

 それはもう「これを自分と呼びます」っていうルールやとしか言えんのやってな。いまのわれわれのルールの外にある、そういう状況は。

 いまのこのルールでいえば、いままさに意識してるこれだけが自分なわけではないと思う。わたしが気づかずやってる気づかいやら癖やらもそれはわたしやろう。歴史・環境のなかでひとがあなたと呼ぶものこそがあなたであり、それはあなたじしんやあなたじしんにとっての感じや見えですらそう。

 わたしや意識や見えや感じがだいじなんではない。だいじなのはだいじなものそのもの。たとえそれがほんとうは何でもいいんやとしても。だいじだからそれを求め、それ(にふれる機会)がふえる。そのことがだいじ。

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