そこにある独我論をつくる(最強の独我論者について)
最強の独我論者は「なぜ自分(と世界)だけが特権的なのか」という当然の問いを受け容れる。最強の独我論者にとっては「そう」も「そうでない」も何も、確かなものは何ひとつとしてない。結果、最強の独我論はなんというか確率1ではなく確率0.5に近づくんやろと思う。最強の独我論者は(こたえてくれるときには)「なんとなく」としか言わない。
自我や他我やクオリアが存在していようがいまいが、3分後のカップ麺を食うのが自分であろうがなかろうが(http://sets.cocolog-nifty.com/blog/041.html)、世界があろうがなかろうが、そうした問いやこたえは最強の独我論者には何も付け加えない。おそらくそういう哲学的(特に形而上学的)問い・こたえがどんなもんであろうが最強の独我論者の行動は変わらない。
最強の独我論者があらゆることにたいしてなんというか純粋に確率0.5であるのにたいし、最強というほどでもないけど最強よりの独我論者はなんというか結果的に確率0.5になったとしてもそこの「なんとなく」には何らかのかたより(傾向)があると思う。
そもそも自我や他我が存在してるかどうかなんてわからん、とわたしはいつも思う。実際に自分(だけ)が哲学的ゾンビやってこともありうる。たしかめようがない。まめぞうが人形でも人間でもわたしにはどうでもいい(じっさいまめぞうがやや人形的なのはさておき)。まめぞうやったってたぶんわたしがゾンビであろうが出来の悪いアンドロイドであろうがどうでもいいやろう(しらんけど)。
「独我論は明らかに偽なので否定すべき」ってのもわかるけど、朝から晩まで年がら年じゅう非独我論的気分でいられるひとがいたらそれはそれでやべえやつやと思う。
わたしがあんまり尊敬してない(ひかえめな表現)ジョン・サールが行動主義者を「あいつらは最高のセックスのあとで「君は楽しんだ、僕はどうだった?」とかって言うんやろう」みたいにばかにしてた(確か)けど、ライルがカテゴリーミステイクやら機械の中の幽霊を批判し傾向だけで満足しろと説くとき、デネットがカルテジアン劇場を批判しクオリア抜きの多元的草稿だけで満足しろと説くとき、求められているのは(ふたりが正しいと思ってるのは)まさにそういったことなんやろう。で、わたしもそれが正しいと思う(「われわれは楽しんだのだろうか」みたいなふうになるべきの気はするけど)。自分が楽しんでるかどうかなんてわからん。特権的アクセス(権)なんてもんはない。たとえ「なんとなく」楽しい感じがしてても。
こういうのはそれこそサイコ的かもしれん。美樹さやかが「抱きしめてなんて言えないよ」とか言ってるのが意味不明すぎてドン引きする側の人間と、さやかの心情に涙する側の人間がいるんやろう、たぶん。
クオリアがなければ人生に価値なんてないみたいな物言いするひともいるけど大した自信やなと思う(同時に卑下しすぎやろとも思う)。
結局は世界開闢が5分前だろうが3億分前だろうがかんけいないのと同じで、まめぞうがよくできた(あるいは、不出来な)人形であろうがわたしが水槽脳であろうがどうでもいい。どうでもいい。
で、それはふつうのひとにとってもそうやと思う。自分以外の人間が哲学的ゾンビなんじゃないかと心配しながら生きてるやつなんてそうはえんやろう。ふつうのひとも、最強の独我論者ではないにせよ、最強よりの独我論者ではあると思う。「謎」にかかずらわない、どうでもいい。すべてを不問に付し、残った「なんとなく」で生きる。世界があろうがなかろうが、3分後のカップ麺を食うのが誰であろうが、アパートの壁の傷をつくったのが誰であろうが、そんなことはどうでもいい。そういうのの(ほんとうの)こたえがどうであろうが、最強よりの独我論者の行動は何も変わらない。
3分後のカップ麺を食うのが自分であることを疑わしく思わんひともいるやろう。でも3千分後はどうやろう。3億分後はどうやろう。明日の自分のためにメモを残すことはありふれてるけど、100日後の自分のためにメモを残すのは難しくすらある。一方で、いつ誰が通るともしれん道に「この先底なし沼」のカンバンをたてるのはいたってふつうのことやろう。10年後の自分に手紙を書きましょう。いざというときの家族のためを思って保険に入りましょう。未来人(人間とは限らない)に向けて現人類の知の結晶を残しましょう。自分の横にいるこのひとに自分と同じように意識があるっていうのはかんたんに想像できるやろけど、この世に何十億という意識主体が存在してるのをありありと想像できるひとがいたらそれはそれでやばいやつやろう。あるいは、「何秒後の自分なら今の自分と違った存在であると想像することができないのか」と考えてみてもいい。はたまた、いつか技術が時代が人格の同一性と意識の連続性とを切り分けられるようになったとき。いったいどこまでなら自分といえるんか。
ある意味ではこれらはぜんぶおんなじようなことやし、ある意味ではまったく違う。でもどっかでひっかかるなら独我論者やと思う。で、独我論っていうのはつまるところそういうもんなんやと思う。
ある軸のかたっぽの端にこの世のすべての意識があって、もう反対っかわに自分なり神なりなんか特権的なもんがある、というアイデア。神も実在論も確信的な非独我論もその軸のうえにある以上は独我論のバージョン違いでしかないと思う。何が信じられる最小なんかっていうところでの違いでしかない。
で、最強の独我論者は「いったいどうして特権的な何かがありうるのか」という当たり前の問いを受けいれる。わたしは最強よりの(なんというかなんらかの偏りで確率0.5の)独我論者であることをすすんで認める。
たぶん世界はあるしカップ麺を食うのもアパートの壁を削ったのもおれやろけど、おれじゃないかもしれんけど、そんなことはどうでもいい。
最強(より)の独我論者は何があるかとかそういうことにはつきあわない。自分の死んだあとでも世界は続くとかいう確信にも自分の死が世界の終点やとかいう確信にもつきあわない。なんとなく「そういうもんなんかなあ」という気がすることはあっても。
そんなことみんな「どうでもいい」と切りすてたあとでも、「なんとなく」で残ってるなにかがある。その残りをうみだすかたより、残っているそのなにか。いわば哲学的概念ではなく日常的概念こそがことばをつくして語るべきものであって、それこそが生きるなかで追い求められるべきもんなんやと思う。
だいじなのはだいじなものそのものであって、「なんとなく」にこそ価値があると考えるのも違うと思う。だいじなのはやっぱだいじなもんそもののやろう。んで、それを求めることによってそれ(にふれる機会)が増えること。それがだいじやと思う。
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