なんで係り結びとは言わんのか

 前のを読んで「なんで「係り結び」じゃなく「係り」と「承け」なんや」と疑問に思ったひとがいるかどうかはわからんけど、書く。

 まず「係り結び」はことばとしてことばに限られすぎるというのがある。もう係り結びって言ったらみんなあのあれを思い浮かべる。
 ただ、それ以上に、大野晋『係り結びの研究』とか「陳述」とか以降、文というものへの考えかたがかたよったものになった、というより「文」というものをあまりに重く見るようになったる気がするんやってな。

 でもそうじゃないやろ、と思う。わたしがこれでふれかけてたこと、金珍娥『談話論と文法論』とかぼっちざろっくとか見るともっとわかると思うけど、いわゆる「言いさし」は言いさしてるわけではなく(「後続すべきものを言ってない」わけではなく)、単に文脈において配置することのあらわれ(実現)やと思う。

「でもバンド始めてみたら あたしの夢って無謀なんじゃないかと思うときもあって 今日だってみんな自信なくしちゃったし
でも とんでもなくやばい状況をいつも壊してくれたのが ぼっちちゃんだったよね」
「今日のぼっちちゃん あたしにはほんとうにヒーローにみえたよ」

「でもあたし 確信したんだ ぼっちちゃんがいたら夢を叶えられる、って」
「だからこれからもたくさん見せてね」
「ぼっちちゃんのロック」
「ぼっち・ざ・ろっくを!」

『ぼっち・ざ・ろっく!』第8話

これには山田孝雄もニッコリ(せんやろう)。

 さておき、言ってしまうと『てにをは紐鏡』以降、形態にとらわれすぎてたんじゃないかと思う。宣長の発見はまさしく形態においてのもんやったんやろと思うでそこはいいんやけど、その後もあまりに形態にとらわれすぎた。係り結びも、語用論とかピンカーとかトマセロとか(いっしょくたにしたら怒られそう)そっちのほうから考えるほうに行く道があってもよかった。いわゆる国語学においては「文」はかなり独特なので「文を捨て発話を見よ」みたいな話でもないんやけど。ざっくり言ってヴィゴツキーとかミリカンとかのほうというか(とはいえ文法論の基礎はどっちかというと形態論より(少なくとも形態ベース)であるべきやと思うけど)。

 そういったことで、だからもう「結び」とか「陳述」とかの文とか完成とかをイメージさせることばを使わんと単に「うけ」とだけ言ったほうがいいんじゃないか、と。いうふうに、自分の考えてたこと言ってたことを解釈しなおした。
 当時は、そもそもは、もっとかんたんに「「係り」と「結び」ってことばとして対じゃないやろ」ぐらいにしか思ってなかったけど、でも結局そういうことやと思う。

 オシツオサレツ表象であろうががんじがらめの文法であろうが、けっきょくは世界のなかで生のなかで何かを承け何かに係っていく、わたしがいつも言う「何かが大事になること」、『論考』で言う世界ぜんたいの弱まったり強まったりってことやと思う。それはことばに限った話じゃない。

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