野生の思考
まめぞうの地元に帰って(行って)、まめぞう家(仮)のひとたちとかかわった。なんか、あらためて、まめぞうの育った生きづらさみたいなのを勝手にひしひしと感じてしまった。つらくなった。悲しくなった。
まめぞうは、いろんな知識をつけてはいるけど、本質的なかしこさとか人格みたいなとこは小学生くらいで止まってる。「思い」なるものをいわゆる「内面化」できてないんすよね。
あんまり社会構成主義的な物言いは好きじゃないけど、まあ「大人になる」ってことは「自分でもひとでも誰でもアクセスできるような「思い」なるものを持つものとして自分を仕立てる」ってことやと思う。「思い」が最初にあるわけではない。動物に育てられたこどもが「大人」になれないのはそういうこと。
まめぞうには「思い」がない。心がないとか感情がないとかそういうことではない。「どう思う?」とか「楽しい?」とかきいてもこたえられない。こたえられるような、相手に渡せるような「それ」をもってない。「それ」が相手にわたせるようなものになってない。
おそらくまめぞうと接するほとんどのひとはそのことに気づかない。へんなやつや、頭が悪い、なんか障害がある、とかいうふうに思うだけ。わたしも気づくのに時間がかかった。なんで喋らんのや、楽しいんかこいつ、みたいな。
いっしょに住みはじめてわかった。こいつは動物といっしょなんや、と。動物はもっと違って、わたしのことばでいうと動物はそもそも心も感情なるものもないと思ってるけど、さておき。動物は、何かを感じるけど、それを整理しない。何かを受けて、何かを感じる。そこで終わり。そういうのについての認知がない。
まめぞうもいっしょなんすよね。何かを受ける、何かを感じる。そこで終わる。人間の場合(ある程度の「大人」の場合)「感じる」のレベルですでにある程度ことばにはなってると思うんやけど、そのことについていちいち認知していないので、いざ「どう思った?」とかきかれてもことばとしてでてこない。いちいち認知していないので、自分から「こう思った!」とかもあんま言わない。そこに何かあっても。あるいは、言いたくてもうまいこと言えんくてモヤモヤしてる。
じゃあそういうやつとどう付き合うかというと、これも動物といっしょで、何かがあるというところでとどまること。動物に「楽しい?」とかきくやつはあほ。動物に楽しいもクソもねえ。少なくともイヌネコは快-不快くらいはあるやろけど、それすら(人間のように)構造化されてはいない。そうじゃなくて、ただいっしょに遊ぶ。顔を舐めてきたらなでたりスリスリしたりしてあげる。嬉しそうならもっとやる、イヤそうやったらやめる。ただそれだけ。それがどう認知されうるかはさておき、ただそういうふうになってるということにとどまる、そこにいる。
そんで、それをくりかえす。なんとなくわかってくるし、なんとなくお互いを信じられるように、好きになってくる。まめぞうはいちおうことばが話せるので、「楽しい?」は無理でも「おいしい?」くらいはこたえられる(「好き?」「よかった?」はたぶんそのあいだくらい)。なんか楽しそうにしてたら「よしよし」とかいってなでてあげる。それでいい。
まめぞうは自分でもひとでも誰でもアクセスできるようないわゆる「思い」はたぶんほんとにない。なんとなれば、そういうふうに自分を教化してないので。だから、なんかを「内面化」することも苦手。たぶん一般にひとは「思い」を「内面化」することの経験を経て「内面化」そのものを学ぶんやろけど、まめぞうはその経験がそもそもないのでいわゆる「内面化」がおそらくほんとうにわかってない。わたしを含め「内面化」そのものを疑わしい概念やとして批判するひとは多いと思うけど、まめぞうはそもそもその概念を自分のものとしては習得できてない。だから「意識してこうしようとする」ことじたいがうまくいかんくて、いろんなとこでつまずく。
いっしょに楽しめるところがあるなら、そこでいいかなと思う。それ以上を求める必要はないというか。向上心のないものは、ばかだ。と言うのは簡単ではあるけど、その「向上心」なるものの向いている上っていうのはどっちでそこには何があるんですかという話。大事なのは楽しみつづけること、楽しみつづけられるようにすることやと思う。それ以上のことがやりたいなら自分のこととしてやればいい(たとえばこういう文章を書いたり)。
ひとはみんな「思い」を社会化する。言語化する、文明化する。それこそが心であり気持ちでありなんかそういったたぐいのものやと思ってる。でも違う。少なくとも、それだけではない。それだけではない何かを、誰でももってる。それがありがたいとかすばらしいとかそういうのはどうでもいい。ただそれはある。ひとは、文明化されているとまったく同時に、いまだ野生でもある。それらを隔てるものはまさしく「思い」である。だからこそ、その手前でとどまることができる。ただそうあることができる。ふたたびそこから始めることができる。
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