『偽物協会』、すごいつらくて、すごいやさしかった、よかった

 偽物協会最終巻、読んだ。読んで、何を書こうかってことを考えてた。けっきょくあんまなんも思い浮かばんかった。

 ひとと会いたくない。ひととかかわりたくない。ひっぱられたくない、乱されたくない。だから仲いいひとですら会いたくない。ひとりでなんかやってたい。

 まめぞうとうまくやってけてるのも、お互いにお互いを気もちよく受けとれる距離が似てるでやろと思う。お互いの気もちよさをお互いに当たり前に思える、そういうたまたまに恵まれて、そのおかげで幸せにいられてる、わたしは、たまたま。このたまたまがなかったらと思うとぞっとする。こわい、ほんとに。

 「本物になれるかもしれなかった地点」があって、そこに戻れるとして、わたしはそこに戻るんやろうか。戻ることを選ぶんやろうか。たとえば、それが生まれる前やったとして。選んだらなんもかもぜんぶ失って、新しい、別の(「本物の」)なんかになるとして。

 そういう選択肢はこの世界の中にはない、って言うのは簡単やろと思う。でも大事なのはそれを選べるとして選ぶんかってこと、何が大事なんかってこと。

 わたしならやっぱりそこへ戻ることを選ぶと思う。今までの人生、今まで積みあげてきたもの、幸せぜんぶ捨てることになるとしても、ふつうの・本物の何かっていうのはやっぱ定義上最強のもんの気がする。それがどんなもんなんかを見てみたい。ふつうの人生をふつうに幸せやと感じるっていうのがどういうことなんかを見てみたい。

 でもそれってなんというか建設的なことでもない気がする。そこへ戻って本物としてやりなおすっていうのはやっぱりどうしたってこの世界の外にある。べつの何かを選ぶってことは今の何かを捨てるってことで、捨てられるのが他でもない自分やったら、もう選ぶのも見るのもそれは誰なんやってなってまう。だからこそ見てみたいと思うんやけど。

 そこへ行くっていうのは変化でも改善でも成長でもなんでもない。選択ですらないかもしれん。それは結局「わたしがわたしでない世界」ってことなんやってな。そういう世界は、あるにはあるやろけど、この世界からはあまりに遠い。けっきょくのところ「この世界」は「このわたし」なんや、やっぱり。だからこそ、自分にまとわりつくものすべてがまさしく自分をかたちづくるもんなんやと思う。

 「こんなに偽物の自分を許せない私は・・・」「ほんとに偽物協会の一員だったんだろうか。」っていうところはものすごくえげつない。自分で自分のふるまい・帰属・忠誠に嫌疑をかけてる。このとき、偽物のみんなが言うような綿子ちゃんの「生身のあたたかさ」とか「独りぼっちの心」みたいなものは失われてる。つめたい、むきだしの同調とか集団みたいなものに綿子ちゃんもとらわれてる。「私人間じゃないんですか?」って泣いてたときと同じ。「偽物協会の一員である」っていう本物にとらわれてる。

 だから、「でも好きだよ」っていう会長さんのことばはあまりにずるくて、こわい。どんなに深く落ちてても、どんなに暗くに閉じ込められてても、いちばん外からいちばん底からまるごとすくいあげて抱きしめてくれる、あまりに強いことば。そのことばにおいては会長さんとか偽物協会とかのいい加減さ・曖昧みたいなもんがない。まったくなんの妥協も保留もなしに、ぜんぶがまっすぐにきて依存させてしまう、最強のことば。

 偽物っていうことの純粋さとマンガ的表現ってところではやっぱり世界の偽物の話がいちばんやったと思う。線がどんどん減っていって、コマ割りがだんだんかんたんになって、とぎすまされてきて。そのピーク。
 世界が偽物やったとして、それがなんやっていうんや。これがこれでありさえすれば今日は今日で明日もくる。拾ったビー玉が地球になって、それがスイカとして砕けて、スイカを食べて、あらためて小さいビー玉をみながらそれが思い出になるということに気づく・・・・っていう絵のつくり、話のつくりとしてその確信に辿りついてる。
 でも、本物協会の話では、「でも好きだよ」っていうメッセージそのものがでてきて救いになってしまってる。みんなが言ってほしい、いつでも刺さってしまう、あまりに安易な、最強のことばが。

 でも・・・・でも、そんなことにかまってられんほど、このことばで伝えたいことは大事なもんなんやろと思う。どんだけ不器用でもどんだけ安易な言いかたでも、どうしても言っておかなあかんもんやったんやと思う。
 わたしがいるために、わたしがいつづけるためには、「この世界」が「このわたし」であるっていう、少なくともそれだけは本物でないとダメなんや。たとえ世界がわたしが偽物であろうが、世界とわたしのその繋がりだけは本物でないとダメなんや。それも失って、自分も世界もどこにもない、なんでもない、ないないない、はつらすぎる。そうなるともう立ち直れるか戻ってこれるかは運でしかない。だから誰かが言ってくれなあかんのや。誰でもない、わたしが言ってあげなあかんのや。何があっても、どんなあなたでも、あなたを消したいあなたでも、でも好きだよ、って。『偽物協会』はそのどうしようもなさをわかってるマンガなんやと思う。

 ほんとうにつらいときには底がない。上も下もなんもない。ただ深くて、ただ暗くて、ただ暗くて、ただ悲しくて、たださみしくて、ただつらい。ただただつらい。だから、どんなどん底からでもいちばん外からまるごとすくってくれることばが必要になってしまう。それはもうとんでもなくずるいことばやけど、だから会長さんは紙に包んで渡したんやろう。そうなってしまえばぜったい必要になってしまうことばが必要にならんことを祈って、でもそうなってしまえばぜったい必要になってしまうからこそ、ああやってそのことばを紙に託したんやと思う。

*****

 「本物になれるかもしれなかった地点」に戻るっていうことはこの世界の中にはない。ってことは、そこに戻りたいっていうのは死にたいっていうのとあんま変わらんのやってな。それは変化でも進歩でもなくて、世界から外れるっていうこと。「でもそこに幸せがあるなら・・・」って、会長さんも思ったんやろしわたしも思ってまうけど、「幸せ」っていうのはことばであって、ことばっていうはこの世界の中でしか意味がないもんやってな。そこに外っていうもんはない。けっきょくこの世界で生きていくしかないんや。このわたししかない、この世界しかない。
 「あんた、ずっとつらいままだよ?」「見えないけど君の選んだ糸の裏にずっとずっと編んでおくから」って言う本物協会のひとはやさしい。第一話の会長さんの「なのに、なぜ誰も普通に生まれてくることができないんだろうね」と表裏やと思う。直接そこをすくってくれるって意味では会長さんより優しくすらある。でもやっぱり会長さんと同じなんや。この世界がこの私であるっていう、少なくともそのつながりだけは本物やということ。この世界のすべてがわたしやということ。

 世界の中で、まいにちの中で、いちばん底から、いちばん外からすくってあげる、好きにいて、好きにいさせてあげる、まいにちのことば、まいにちのやること、まいにちの居場所。やさしさと、幸せでいること。誰かが誰かの世界の一部であること。それが大事なんやと思う。
 なんかもうなにひとつうまいこと言えんかった気がするけど、偽物協会、よかった、ほんとに。読まずに死ねるかってよく言うけど、これはほんとに、読まずに死にたくなかった。こういうマンガがあってくれて、出会えて、よかった。

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