ぼっちざろっくムック読んで考えた
ぼっちざろっく円盤4巻まで出て、ムックも出て、なんか終わったあと出るものはいったん出たような気がする。ムックは自分の最終回評(これ)の答え合わせみたなのも期待してたんやけど、かなり答え合わせできた。創作サイド・声優サイドの言ってることがすべてor正しいとは言わんけど、「今日もバイトかー」への言及がむっちゃ多かったのにはさすがにガッツポーズというか、やっぱり感があった。
んで、ここからが考えたこと。円盤にはサブタイトル?的なのがついてて、それがなかなか面白いのです。
第1巻 「押入れより愛をこめて」(ぼっちちゃん)
第2巻 「本当の夢は/その先にある」(虹夏ちゃん)
第3巻 「個性捨てたら/死んでるのと同じだよ」(リョウ)
第4巻 「けど、皆と合わせるのは/得意みたいだから……」(喜多ちゃん)
なにが面白いんかと言うと、まず、ぼっちと虹夏は本人のセリフそのままではないんやってな(ぼ虹派並の感想)。
おそらく、各巻サブタイトルは基本的にそのキャラの闇(というか、闇&光の両方?)を象徴することばになってる。
虹夏はぱっと見は闇がないように見えるけど、ここで言う「その先」が「ひとりだけの家族であるお姉ちゃんを幸せにすること」であるというまさにそのことが闇、と考えるとぐっとくる。
リョウと喜多ちゃんは言ってしまえば夢をもう叶えてるけど、虹夏ちゃんとぼっちちゃんは夢(最終目標)が「先」にある(ここにない何か)ってことなんやろと思う。と同時に、動機のスタートにあるものが恩返しでもある、っていう。
(ぼっちざろっくでは縁の重さを主題にしてはえんけど(それをやるのはピンドラとか)、そこも重いな、と思う。)
二人は「いまのこの幸せ」と「その先」とのギャップを抱えてる、知ってる。虹夏ちゃんがライブのあとひとりで外にいたのも、ぼっちちゃんがそのことに真っ先に気づいて後を追えた(?)のも、そういうことなんじゃないかと思う。
二人にとってはライブのあとのあの幸せなときは、充分に幸せではあるけど、まだゴールではないときなんやろう。
***
最終話、なんで喜多ちゃんが1話のぼっちの姿を覚えてるんか、あるいは喜多ちゃんがぼっちちゃんの1話の姿を覚えてる意味、わかってなかった。
もう何周してるかわからんけど、また第一話から見はじめて、いまさらすごい大事なことに気づいた。
第一話の喜多ちゃんのあの短い出番、ちらっと映ったあのシーンで、喜多ちゃんは自分がライブをすっぽかそうとしてるのをわかってるはずなんやってな。だからこそぼっちのギター姿にはっとしてる。
そんで、その後、自分がすっぽかしたライブで穴を埋めてくれたのがぼっちやということにも気づいてるはず。
第一話のぼっちがギター担いで歩いてる姿を覚えてる、っていうのは、だから、最終話の今の自分のこの幸せがいろんな意味でぼっちのおかげやということに気づいてる、という描写なんや。
虹夏にとってぼっちが「棚からギターヒーロー」であるのとは違った意味で、喜多ちゃんにとってもぼっちがヒーローであるということの重み深み。それにようやく気づいた。いまさら。いやでも見落とさんでよかった。
***
・・・・・って考えると、ぼっちざろっくは「星歌を追う虹夏を追うぼっちを追う喜多ちゃん」みたいな構図になってる(山田はそれとは別で虹夏を追ってるようにもみえる)。
虹夏はゴールがあるからそのために動き、ひとを巻き込んでいく。
それが物語のスタートでもあり、バンドの原動力にもなってるけど、同時に虹夏は満ち足りるということをある意味では知らない、いわば「穴を埋めることを原動力にしてる」っていう儚さ危うさがある。
原作よんでないけど、2期があるなら「バンドとして挫折して、山田がみんなをひっぱって立ち直らせていく」っていう展開があるんじゃないかと思った。そこで先頭立つのはおそらく虹夏じゃないんじゃないかな。山田は山田でなんというか最初から「いち抜けた」してる感がある(根本的には夢を叶え終わってる)ので、その立ち位置を利用してひっぱっていく役目がありそう。
で、そのとき初めて四人がやっと同じ土俵に立てる、同じステージに立てるんじゃないかなーと。
実は一期時点では「すれ違いが表面化してないだけ」的な危うさもあるのを感じてる。まあ『けいおん!』も結局そういう話やったんやけど。だからこそそこをやらんような気はするけど。
虹夏の闇の超克ないし克服に結束バンドの結束がかかってる。どっちかっていうと超克かな。まあそもそもそんなことをやらんってこともじゅうぶんありそうやけど。
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