自主映画を、撮る。その7
まずは進捗報告から。
無事、ラブコールを送っていた後輩から主演OKの返事を頂きました。まずは一安心。すかさず仮台本を送り、感触について伺います。実は今回の作品、明確な筋書きが用意されているのは前半パートのほんの一握りだけ。中後半は一気に即興劇へと変貌を遂げていきます。流れを汲むために、最低限度のキーワードだけは共有しておいてあとは本番当日のお楽しみ。
作品毎に割ける時間はわずか「2時間」ずつ。しかし当方何ならワンテイクで決めに行くつもりでおります。勿論、上手くゆけばの話ではありますが。とはいえ即興劇という性質上、やればやるほど鮮度が薄れていく。知らぬ間に「型」が仕立て上げられてしまって、レールの上で物事がやりとりされるだけに終始してしまう予感が。あくまで音楽活動を経験した立場から。
リハで全て出し切ると、本番が「二番煎じ」に。
即興劇なのになんで事前打ち合わせなんかやってんだ、って話です。けれど彼は遠方にお住まいですからなかなか顔を合わせて話し込む余裕もなさげ、文字情報ベースでのやりとりが今後も続いていく訳ですから当然齟齬のないよう細かな確認・確認の連続。でも今のこの感じも程良いところで切り上げようと思っています、新鮮な気持ちで「アクション」の声を掛けたい。
ジャズ演奏における「リハ」の意味合いについては諸説あって然るべきですがしかし主宰の認識では「最低限の構成確認」と「音取り」つまりメロディくらいは間違えず弾けよ、コードミスんなよくらいのものです。それをそのまま映画撮影に落とし込みたい、映画部での活動終了以降主宰が培った部分を作品性に漏れなく反映していく。案外、仰々しい話でもありません。
主役の彼が脚本の世界観を大きく広げてくれた。
しかし面白いもので「リハ」の段階から、当初の想定とは全然違う方向へと音楽が進んでいく場面が幾度とありました。今回もまさにそうで。実は僕、こう解釈してたんですけど。主役の彼が用意したのは実に想像を絶するオチでした。本当に、仕上がりを楽しみに待っていて下さい。驚くと思います。冗談のつもりで言っているのか、それとも本心なのか判別付かないくらい。
当初主宰が準備していたオチの方向性としては2パターン。ざっくり言うと「置きに行く」「スカす」所謂コント的手法の猿真似、しかし彼の用意した第三の道は明らかにベクトルの違う世界観でしたので問答無用で採用。細かな微調整を経て、無事脱稿を迎えたのでした。ずっと夢だった「役者主導」の作品作りにようやく一歩近付くことができたのかなあと。
ここで唐突ですが話題を変えまして。
前回どこでお話したのかもうすっかり思い出せないくらいですが、最初期の企画会議にて「オムニバス形式」「中長編」の二段構えでプレゼンを敢行。結果前者が採用され、紆余曲折ありまして「オムニバス形式+α」のような形にブラッシュアップ。当初用意していた「中長編」に使用予定の楽曲プレイリストが日の目を見ないまま本日、結びの段までやってきておりました。
なので、今からいきなりやります。なんか急に降って沸いたものですから。シリアスな中にも細かな起伏を、感情の揺れ動きを音で表現したピアノソロ楽曲中心に「歌詞」の世界観に重点を置いた選曲を心掛けました。せっかくですからボツ企画案と照らし合わせつつお楽しみ頂くことにしましょうか。仮タイトルは『めぐりあう』、家族友人の再生を描く物語の叩き台と共に。
中長編映画『めぐりあう』(仮) 企画書
テーマ【ある主人公の訃報を知らされた家族友人が、再生するまでの物語】
日頃から看病していた家族友人
亡くなる前後やっとこさ駆けつけた家族友人
通夜葬儀で久し振りに会った家族友人
後日やっとコンタクトが取れた家族友人etc.
→そのいずれにも当たらない家族友人
他人事、拒否反応、無視、過去のいじめ体験が発端で
当人の死後露呈する家族友人関係の深度や軋轢=「(ネガティブな意味での)真の関係性」
→実はそうなるに至った「水面下」のエピソードが存在していて
(上映時間の許す限り各人のパーソナリティを炙り出していく)
一方、一時隔絶状態にあったはずの家族友人関係が
当人の死を契機に修復されることもある
ex)長らく音信不通だった一人が葬儀当日の朝早く、突然姿を見せた
→「亡骸はみたい」「大変申し訳ないことをした」「でも葬儀には出られない」
そうした家族友人関係のアンビバレンスが描けたら
決して悪いことばかりではない
→止まっていた時計の針が動き出す局面もある
様々な境遇困難を抱えた家族友人同士が「巡り会えた」という事実は揺らがない
→作品のポジティブな落としどころ
最も疎遠だった人物がお別れ会当日、最寄り駅を降り会場へ向かうシーンで本作が終わる
→その後談は具体的に描かず、視聴者に委ねる
※この物語はフィクションです
(次回へ続く)