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【陰謀論】見えないアナルを見ようとして望遠鏡を覗き込んだーー『天体観測』で覗き込んだものは「「肛門」」だった!!

今更言うまでもないことではありますが、バ◯プの『天体観測』はめっっっっちゃ名曲です!!!

ただわたくしには長年の疑問があります。それはサビで曲の主人公たちが見ようとしたものは一体なんなのかということです。

普通に考えたらオリオン座とか北斗七星ですよね。ほうき星を探すなんて歌詞にも書いてありました。ですがわたくしにはそれらがしっくりしません。

しかし考え続けて20数年、やっと結論がでました。それは「肛門」です。彼らは望遠鏡でアナルを覗き込んでいたのです!

これだけ聞くとなんだか突飛だと思われるかもしれません。しかしわたくしがこれから論証しますので、これを読み終えた頃には皆さんにも納得していただけると思います。

そのためにはまず太陽の話から始めなければなりません。

『天体観測』は現代版イカロスだった!

まずは、『天体観測』において望遠鏡で覗いたものは太陽である、というところからはじめます。え、肛門じゃないの?と思ったあなた、早漏すぎです。

さて、みなさんはイカロスの神話をご存知でしょうか?蝋で固めた鳥の羽根をこさえて太陽をめがけ飛んでった、愚かで勇敢な男の話です。結局蝋の羽根は灼け落ち、イカロスは墜落死します。この話の顛末は『勇気一つを友にして』という楽曲になっており、子どもの頃のトラウマソングとして覚えている方も多いでしょう。

太陽を望遠鏡で覗くという自殺行為は、太陽に接近しようとしたイカロスを表象します。現代のテクノロジーは蝋で固めた羽根で太陽に飛び立つことを許しませんが、望遠鏡を覗くことで太陽に接近することは可能なのです。

それではなぜわたしたちは愚かにも太陽に近づこうとしてしまうのでしょうか。

太陽は肛門だった!

史上最も太陽に関心を払った思想家といえば、まちがいなくジョルジュ・バタイユでしょう。彼は太陽を中心とした有用性に還元されない経済原理を模索するなど、20世紀にもなって独自の不思議な思想体系を打ち立てました。

彼は役に立たないもの過剰なものに対して、自分のしたウンチを見守るような温かいまなざしを持っていました。

そんな彼が29歳のときに書いた『太陽肛門』は、わたしたちに『天体観測』で望遠鏡で覗いたものが肛門であることを教えてくれます。

まずはバタイユの言葉を見てみましょう。

太陽の光輪は、十八歳の彼女の肉体の無垢な肛門なのだ。この肛門と同じほど人を盲いさせ、この肛門に匹敵しうるものは、太陽以外にない。ただし肛門は夜なのだが。

G.バタイユ著、酒井健訳『太陽肛門』景文館書店、p.20

どうやらanusの語源が「環」であることに由来するパロディのようですが、それは置いておきます。

太陽も肛門も、同じくらい人を盲目にさせます。
太陽とかけまして、肛門とときます。その心は、どちらも直視できないでしょう。
山田くん、座布団一枚!というわけです。

ただし、わたしたちが自分の肛門を見ようとまんぐりちんぐり返しをしたところで肛門は不可視であるのと同じように、太陽も夜と対峙することができません。対峙してくれてありがとう、なんて言えません。

太陽は、まなざされない。太陽がいくら男根を差し出したところで、その愛にまなざしは返されない。あわれな太陽ですが、ギブアンドテイクに回収されない圧倒的な贈与者としての太陽の真骨頂はここにあります。

AV女優がブリブリの肛門を画面にむけて曝すとき、わたしたちは激しい勃起に襲われます。それは本来不可視であるはずの太陽を直視することだから。だからこそわたしたちは肛門を覗くとき、メドゥーサに石化されたかのように釘付けになって、視線を逸らすことができません。盲目になるまで、わたしたちは肛門をまなざし続けるしかないのです。

少女の肛門は夜だった!

バタイユは「AはBである」と関係ない二つの事物を結びつけるとき、このAとBは性的関係を結んでいると言います。そしておそらくこのAはBのパロディであることを含意します。

例を挙げると、「私は太陽である」と言ったとき、私は太陽に対して勃起しており、かつ私は太陽のパロディであることを意味すると、バタイユは言います。

ですから、「太陽(の光輪)は肛門である」と言ったとき、その肛門の処女性は損なわれます十八歳の彼女の無垢な肛門は、まだ be動詞で連結されたことのない処女の肛門なのです。

バタイユは「お前は夜だ」と言ってくれる少女を冒したいと言います。太陽は誰とも性交できないという意味で、処女の肛門と同じです。ですから「私は太陽だ」というのは単なる撞着話法でなく、本来的に不可能なパロディなのです。そこで「お前は(太陽ではなくて)夜だ」と、太陽と向き合うことができないことを無慈悲に宣告してくるのは少女であり、彼女と肛門性交することによって、バタイユは太陽に接近しようとするのです。

しかしまた、「肛門は夜」なのです。本源的に肛門と太陽は排反です。それは、わたしたちが太陽を見上げるとき、太陽と肛門が反対方向の対角線上にあるのと同じです。

望遠鏡は勃起したペニスだった!

樹木は、太陽に向けて無数に花開く男根の幹を大地にそそり立たせる。

同書、p.13

植物は一様に太陽をめざしている。逆に人間は、他の動物と違って、樹木のように男根直立型だというのに、必ず太陽から目をそらしている。

同書、p.15

バタイユによると、植物が太陽に向けてそそり立つ姿は勃起した男根を表象します。人間の男根も太陽に向かってそそり立っているが、その一方で目は太陽からそらします。

天体観測で使う望遠鏡は、太陽に向かって直立する男根であるのと同時に、太陽を直視せんとする人間のまなざしでもあるのです。

しかし本来的に太陽を直視できないわたしたちは、太陽を覗くとき、肛門もまた覗き込んでいるのです。

そして「肛門は夜」であり、曲の情景に矛盾しません。

見えないモノを見ようとして、望遠鏡を覗き込んだ

人間が直視できないものは、圧倒的な贈与者たる太陽だけです。太陽と関係を結ぶためにわたしたちは男根を差し出しますが、そのとき目は太陽をそらします。だからこそ太陽に達するためには、男根であり目でもある望遠鏡によって覗き込むしかありません。しかし翼が溶けたイカロスと同じく、太陽に至ろうとする者は死に至ります。わたしたちは太陽を見ているようで同じく不可視たる肛門を直視しているのです。盲目になるまで肛門を見続けることしかわたしたちにはできませんが、そのとき、肛門は夜なのです。

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