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浪曲と孫文

2月、東京浅草にある日本浪曲協会に、浪曲の口演を聴きにいってきた。


東京浅草、日本浪曲協会。どうでもいいが、写真が思いのほか大きかった。/佐京撮影

浅草と田原町の駅のあいだにある協会の建物はこぢんまりした作りで、その広間で浪曲が行われたわけだが、

広間にある額が掲げられていた。

そこに書かれていたのは、

「桃中軒 雲右衛門君  孫文」

の文字であった。

え、孫文!?

ということで、少し調べてみた。

孫文(1866-1925)は、1894年にハワイで興中会を、1905年に東京で中国同盟会を結成して清朝打倒の革命運動を進めた人物である。

孫文像/台北にある国立国父紀念館にて/佐京撮影

一方で、桃中軒雲右衛門(1873-1916)とは、明治・大正期に活躍した、「浪聖」と呼ばれた浪曲師である。

*浪曲(浪花節)とは、明治期に創始された日本の三大話芸の一つで、三味線の伴奏で独特の節回しで「うなる」演芸。芸人さんのなかでは浪曲を「ひとりミュージカル」と称する人もおり、私もその説明にしっくりきている。


東京は泉岳寺にある大石内蔵助像。
この像の発願者が「赤穂義士伝」を得意とした浪聖・桃中軒雲右衛門である。/佐京撮影

この二人にどのような接点があったのか。

この二人をつないだのは、宮崎滔天(1871-1922)という人物である。

宮崎は、熊本出身のアジア主義者・社会運動家で、孫文ら中国の革命家を支援した人物の代表格として知られている。特に孫文に対しては献身的な援助をしたことで知られている。

この宮崎であるが、1901年に突如革命運動を離脱して、翌年3月にはなんとほかでもない桃中軒雲右衛門に弟子入り志願をしているのである。

予が高等乞丐(こじき―引用者注)より一転して浪界に投じたのは、謂うところの「志」なるものを棄てたのではなく、三十三年事件(恵州蜂起のこと―引用者注)失敗の結果、先輩知己に対して自ら責を引き、独り竊(ひそか―引用者注)に新天地を開拓して、「志」なるものを遂行せんとの下心からであった。

宮崎滔天「軽便乞丐」

「高等乞丐」とは、「志」(ここでは革命の志)の達成のために他人の同情を引いてきたという自覚のもとで自己を表現したことばである。

実は、引用文中にある「三十三年事件」(恵州蜂起、1900年に興中会他2派の合同での蜂起が失敗した事件)の際、宮崎は革命資金を着服しているという噂が流れたことがあった。このことに宮崎大きなショックを受け、これを機に、そもそも長年資金援助を得ながら革命運動をしてきた「高等乞丐」ではなく浪曲師として自ら生計を立てようとしたのである。

浪曲は当時の演芸界において非常に人気があった。

しかもそこで語られるのは、江戸時代以来の話芸とは異なり、自らの政治的な主張や、日清戦争などの戦死者を実名で歌詞や語りに入れて紹介するというスタイルの話芸であった。

自由民権運動のときには演説を講談師に学ぶ者もいたというくらいであるから、宮崎が浪曲師としての道を選んだのも、自らの政治的主張を音曲に乗せて広めるという積極的な選択であったと思われる。

*ちなみに、お気づきの方もあろうが、弟子入り志願をした宮崎滔天よりも師匠となる桃中軒雲右衛門のほうが2歳ほど年が下である。このことから雲右衛門は、子弟ではなく「兄弟」の義にとどめ、こんな言葉を残している。

君はわれによって芸道を学べ、われは君によりて知見を拡むるを得ん

榎本泰子『宮崎滔天』(ミネルヴァ書房、2013)

さて、宮崎が浪曲師としてデビューするのに先立って『二六新報』に連載していたのが、「三十三年の夢」という文章である。

1902年に出版されることになるこの文章は宮崎の半生を記したもので、そこで孫文の政治思想が詳細に語られている。本書は現在は岩波文庫から刊行されている。

*宮崎はこの『三十三年の夢』を、浪曲師への転向を機に執筆を始め、舞台に上がるまえの宣伝とするつもりであったようである。タイトルは三十三年(数え)の自らの人生を振り返ったものという意味。どうでもいいが、私はこのときの宮崎より年が上である。なんということでしょう。*

この『三十三年の夢』は中国語に訳され、宮崎を慕って日本へ留学する中国
人学生が、このころ増えたようである。

『三十三年の夢』の翻訳本は1904年には出版され、これにより孫文と宮崎滔天の名は中国人学生の間に広まっていたようである。

ちょうど「科挙」が1905年に廃止され、その翌年には留学生の総数は10000人を超えたそうだ。義和団事件以降、学生の清朝に対する不満が増幅していたことも見逃せない背景だろう。

本記事では、日本浪曲協会に掲げられた一面の額から出発し、孫文と浪曲師・桃中軒雲右衛門の関係をリサーチし、その間には宮崎滔天の存在があったことを紹介した。

この額そのものがいつ頃書かれたものなのか、等についてはまだ調査が至っていない。しかしながら、浪曲という「芸」とアジア主義という「思想」が奇妙な結節点をもって私の目の前に現れたのは大きな収穫であったと思う。

久々に知的な興奮を覚えた。


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