「クラシック音楽の敷居の高いイメージについて」〜中世、近代、そして現在における音楽ジャンルの性格〜
皆さんこんにちは。Sakuyaと申します。
個人Vtuberです。基本的には歌動画の投稿などをしてのんびりと活動している者ですが、たまに音楽史の解説などをしています。
久しぶりの更新となってしまいましたが,ついにこの話題に触れる時が来ました。
半年くらい前より書き進めては消して,また書き直しては消していたテーマとなります。
「クラシック音楽の敷居の高いイメージについて」です。
若者のクラシック音楽離れが著しいというお話は定期的に話題に上がりますが、
実はクラシック音楽のコンサート動員そのものは2023年時点で増加傾向にあり、
特に35歳以下の若年層、かつ、いわゆる「初見さん」は18%を占めていたとのことでした。
(調査対象がオンラインチケットサービスというのが結果に影響しているかもしれませんが。)
さらにそのうち70%は「また観に行きたい」という満足度だったそうです。
気になる方は下記に調査書の要約URLを載せておきますのでぜひご覧ください。
ただこの中でもクラシック音楽鑑賞への参加の障壁となる要因について、
「難しすぎる」「価値がわからない」というものが挙げられています。
やっぱりクラシック音楽って難しくてとっつきにくいジャンルなのでしょうか?
結論から言ってしまうと、
「とっつきにくい一面」はあります。
歴史を紐解いていくと、クラシック音楽ってちょっと独特な成り立ちがあるのです。
そのとっつきにくいイメージの根元を
1.「楽譜」に書かれた音楽だから
2.「紙」は「神」だった
3.ジャンルの性格がなかなか変わらなかった
4.今は「ハイソな音楽」ではなくて、「◯◯◯な音楽」
という視点で一緒に考えてみたいと思います。
では早速参りましょう。
1.「楽譜」に書かれた音楽だから
そもそもクラシック音楽、いわゆる「芸術音楽」と他の音楽ジャンルの違いというのは何だと思いますか?
これはまたその人ごとに答えがありそうな問いではあるのですが,
非常にわかりやすい例としてひとつ
岡田暁生著「西洋音楽史」(中公新書)の中で「楽譜に記された音楽であること」と定義していたのを踏襲したいと思います。
以下引用
この「紙の上で設計される音楽」というのが「クラシック音楽」の性格を強く決定づけています。
「何だか知識がないとしっかり楽しめなさそう」というイメージも、「音楽の設計図を組み立てる」という性格を帯びていることから由来しており、オーケストラ音楽のような複雑で非常に大規模な楽曲を作ることも、設計図に書かれているから実現できる、ということでもあります。
クラシック音楽の歴史の出発点は、7、8世紀に「グレゴリオ聖歌」という歌が「作られたこと」と、そして、それらが「紙に記されたこと」であったことだといわれています。
恥ずかしながらこちらは私も動画にしておりますので、機会がございましたらご視聴ください。
2.「紙」は「神」だった
そして、「紙」の存在について少し考えてみたいと思います。
近代以前のヨーロッパ社会で、紙は現代人の私たちが想像する以上の貴重品でした。
現在、私たちは本一冊を一千円弱から手軽に購入できますが、
例えば中世末期〜ルネサンス初期くらいの時代では、本一冊数百万〜数千万の値打ちがあったそうです。
(装飾や本の厚さで、その本ごとに軽自動車と高級車くらいの開きがあるようです)
(印刷の技術もまだ無い時代で、一つ一つが手作りでした)
よって、当時紙や本を手にすることができた人というのは、ごく僅かでした。
さらに中世〜ルネサンス初期当時の識字率の低さを鑑みると、その紙に書かれた文字を読める人の数となるとさらにごくごく一握りの人だったのでしょう。
ここでまた岡田暁生著「西洋音楽史」(中公新書)を引用させていただくと、
西洋芸術音楽についてこのように再度定義しています。
以上のことからクラシック音楽は成り立ちから19世紀末まである一定の特権階級へ向けた特殊なジャンルの音楽だということがわかります。
3.ジャンルの性格がなかなか変わらなかった
さて、クラシック音楽の成り立ちはそうだとしても、そこから700年以上も経過した今もなお特権階級のための音楽なのかといえば、全くそんなことはありません。
19世紀以降、フランス革命をはじめとする西欧諸国各国の市民革命、及びにイギリスの産業革命の影響によって、それまでは王宮や貴族の家で演奏されていただけの音楽が、大きく開かれた「コンサートホール」という公共の場で聴けるようになりました。
会場に足を運んでチケット料金を支払いさえすれば、誰でも鑑賞できるというスタイルになったのです。
ただ、かつて特権階級の音楽ジャンルだった過去があるために、富を手にした市民にとっては、コンサート会場へ通い、クラシック音楽について語り合い、子女にピアノやヴァイオリンを習わせることが一種のステータスとなってしまい、
「かつての特権階級と同等の文化水準を有している自分」を象徴するための1アイテムともなりました。
この点については、また何れ19世紀の音楽についてお話する機会に詳しく触れてみたいと思います。
中世→近世→近代とジャンルとしての性格があまり大きく変わらなかった,ということが
「とっつきにくさ」に繋がる第2の要因になるのだと考えます。
4.今は「ハイソな音楽」ではなくて、「◯◯◯な音楽」
少しばかり急に話題が変わるのですが
私が大昔にレッスンで叱咤激励を受けた際
「皆に宝物を分け与えるような気持ちで演奏し、教育に取り組み、後世に伝える事が音楽家の仕事」であると言われたことがあります。
今思い返すと、個人的にはクラシック音楽は「宝物のようなものだ」と思えばしっくりくるような気がします。
数100年も前の時代、当時の貴重品を使ってまでわざわざ記録を残し、何らかの理由で今まで代々残されているのですから、それはまぁ宝物ですよね、というわけです。
宝物だから、辿り着くまでの道筋も知らないといけないし、その価値を知らないと手にした意味もない。
でも宝物だから、多くの人に知ってもらってこそその真価を発揮するとも言えるのです。
やっぱりこのテーマは一筋縄では考えられないのです。
とはいえ現代は電子音楽やインターネット環境の普及もあり、クラシック音楽もジャンルとしての性格が随分と変わったように思います。
今はジョスカン・デ・プレからジョン・ケージまで、いつでもワンクリックで、時にはフリーで動画や文献、資料にアクセスできます。
しかし、ジョスカン・デ・プレやジョン・ケージが何者かを知るためのリーチは相変わらず身近ではありません。
つまり、もはやクラシック音楽はハイソなものではありませんが、知識と経験を要するオタクの音楽である、ということは相変わらずだと思うのです。
結論・まとめ
クラシック音楽は敷居の高い音楽ジャンルなのか?
というと、その点はどう頑張っても否定できないと思います。
理由としては、
昔々のエリート達によって生み出され、特権階級に守られて発展した歴史があるから。
時代が変わっても、諸事情あってジャンルとしての性格が長らく変わらなかったから。
今は特権階級の音楽というわけじゃないけど、「設計された音楽」の特性上、オタク向けの専門性の高いジャンルであることは変わっていないから。
などという理由が主に挙げられます。
最後に
「クラシック音楽はわかれば楽しいし、人生が豊かになるほどの魅力がある」というのは事実ですが、それはオタク側の一方的で傲慢な意見でもあります。
人生を豊かにしてくれる音楽や芸術というのは何もクラシック音楽だけではありません。
一方で、潜在的に好きな人に届かないのは勿体無いなぁというオタク的なお節介心もありますし、
私個人としては大好きな音楽ジャンルの一つなので、何とかリスナー人口、プレイヤー人口が増えないかしらとは常日頃考えてはいます。
と言った感じで
相変わらず自分本位の記事ではありますが、少しでも面白いな、クラシック聴いてみようかな、と思っていただけると嬉しいです。
モチベーションになりますので、コメントやアカウントのフォローなども是非よろしくお願いいたします。
ここまで長々とお付き合いいただきましてありがとうございました。
では、またお会いしましょう。
【参考】
敬称等略
羊皮紙工房
https://youhishi.com/
中世彩飾写本の世界(美術出版社)
内田裕史
西洋音楽史「クラシックの黄昏」
オペラの運命 十九世紀を魅了した「一夜の夢」
(中公新書)
岡田暁生
ニューグローヴ世界音楽大事典
(講談社)
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