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『母さんごめん、もう無理だ』朝日新聞社会部


本書を手に取ったきっかけ

本書は、私にしては珍しく「ルポルタージュ」の部類に属する本だと思います。いつも小説の紹介が9割ですが・・・。

帯にもあるとおり

これが自分だったら一線を越えずにいられただろうか?

『母さんごめん、もう無理だ』帯より引用

ひとたび、事件が起きると、それが特に「殺人」の場合、SNSでも「同じ環境でも殺人を犯さない人間もいる。やはり、犯す人間と犯さない人間には明確な違いがある」といった論旨の投稿やコメントを見ますが、私はそう思えないのです。

依存症などもそうですし、発達障害の子を持つ親が周りからは援助が受けられず、自分自身も目一杯で、おまけに夫からは「おまえの血筋だ!」と別れられたりしたら・・・。

仮にそういう考え方をできなかったとしても、「犯罪を犯すから捕まえて、一定期間自由を奪ったり、大金を払わせたり、払えないなら刑務所でその分を働いて返したり」することで、本当に犯罪を犯すという「一線を越えるほど追い詰められた原因の解消」に繋がるのだろうか。

これが疑問なのです。

本書の構成と目的

ルポルタージュにあらすじも何もないのですが…。

本書は、朝日新聞社会部の方がおそらく数名で、裁判所の傍聴席の券を勝ち取り、世間的に大きな波紋を呼んだ事件から、老老介護の果ての事件、シングルマザーや優しい奥さんが、モラハラ夫やDVに悩んだ末に子どもの命を奪った事件等々。

検察から語られる事件の概要。弁護士の意見、そして被告本人から語られる事実(の一部)、事件に至った経緯、今の心境など、裁判で語った言葉をメモを取りながら、のちほどまとめ、それぞれの裁判の最後に判決が出た物については判決の内容、控訴したものは控訴した事実などが記載されている構成となっている。

裁判を傍聴することで、たとえ事件の全体は見えなくても、被告人がおかれた環境を少しでも知ることで、今後の事件を防いだり、社会の暗部に落ちて苦しんでいる人に、何らかの形で貢献できるのでは無いかー。という主旨のものです。

ここで、「記者の目」という、本書内にいくつかあるコラムから、「私がやっぱり本書を手に取ってよかった」「同じようなことを考えている人がいるのだ」と実感できた部分を引用させて頂きます

記者の目①「生の言葉」を伝え続ける理由

同性愛者の男が鯉千蒲だった男性2人にストーカー行為を繰り返したあげく、それぞれの親を殺してしまったー。発生時にはテレビのワイドショーや週刊誌を騒がせたこの事件の裁判を傍聴したことが、この連載企画を始めたきっかけだった。

傍聴席から見る被告は、服用していた睡眠剤や精神安定剤の影響があったのか、顔色は生気を失い、目はうつろで微動だにしない。証言台に立つと弱々しい声でぽつりぽつり、喜怒哀楽はなく、質問に対してひたすら従順に答えていた。

その姿からは、証人らが法廷で語る日頃の被告の横暴ぶりはとても想像できなかった。残忍な殺害の手口はもちろん、キレると手がつけられなくなり、かわいがっていた子犬の腹を蹴って階段から突き落としたり、戸籍上だけの「夫婦」だった妻に天ぷら油をひっかけて大やけどを負わせたり、本当にこの人にそんなことができたのだろうかー?混乱した。

だが、裁判は事件の真相をすべて明らかにしてくれるものではなない。主に検察側の立証や弁護側の反論に必要な事実を、被告や証人に語らせるための場だからだ。「なぜこんな事件が起きたのか。」一番知りたいことはなかなか正面から語られない。

ならばとにかく法廷で語られた事件や被告のディテールを、見たまま聞いたままに描こう。ふつうの新聞記事には書かないようなやりとりを。「なぜこんな事件が起きたのか」の答えは出ないとしても。こうしてこの企画が生まれた。初回となったこの事件では、計11日に及ぶ裁判員裁判を傍聴し、夢中で取ったメモはノート3冊分に及んだ。

「裁判を通して世の中が見える」なんて大げさなことは私には言えない。一つ一つの特異な事件を無理やり一般化して語ることもできない。ただ法廷には、この社会が抱えたひずみを知るためのヒントが転がっているのかもしれない、と思う。そしてそれらを集める為に法廷に足を運び、被告や証人の生の言葉に耳を傾けるのだ。

あの事件の裁判を判決まで見届けたあと、私の心に浮かんだのは、「この人にとってもっと生きやすい社会だったら、こんな事件を起こさずに済んだのだろうか」という思いだった。

「ゲイは嫌い。ふつうに生まれたかった」。被告は常々そう言っていた、と証人として出廷した妻が語った。また被告は麻酔薬や睡眠剤を手放せなかった。それが感情の起伏が激しかった原因の一つだという。裁判官から「事件は薬と性格、どちらのせいだと思うか」と問われ、「半々くらい。薬をやめられればよかったと思う」と答えた。

こんな証言の断片から被告や事件のすべてがわかるわけではない。「どうすれば事件を防げたのか」にも答えはない。ただ、どの事件も、私たちが生きる社会のなかで起きている。裁判のなかで語られた言葉をたくさんの人と共有し、それぞれが思いをはせることで、誰もが生きやすい社会に一歩でも近づけたら、そしてそれが未来の加害者と被害者を一人でも減らすことにつながればー。そう願っている。               (伊木緑)

『母さんごめん、もう無理だ』64~66ページ



これからの司法のあるべき姿とは何かー。

数か月前に、私のように重度のうつ病などの精神疾患を抱える人と依存症に悩む人のために、CBT(認知行動療法)をデイケアで行うクリニックに通院したことがありました。

その経験を通じて、私なりの考えを別のSNSで投稿したことがあります。

ある芸能人が大麻の使用・所持で逮捕された件を受けて、私なりの考えをあるSNSで投稿した内容

そう思いますよね。
私もそう思っていました。
つまり、薬物依存は厳罰で対応しよう、厳罰を与えて強制的に治そうって。

私は鬱と「診断名がついて」から約7年が経った者です。
ほんわりと上がる、下がり始める、海溝のような深い所に落下する、ほんわり上がる…を繰り返しながら、与えられるがままお薬を飲み、ぼーっとした廃人に進化しつつある時、主治医から「面倒見切れない」とデイケアがある別のクリニックに転院させられました。

このデイケアでは依存症の治療を院長が熱心に行っているので、デイケアに通うレベルの人は何かしらの依存症を持っているか、依存症はなく精神疾患単体だけど重度の患者さんです。もちろん、毎日どこかから集まって通院するので、そもそも通院できない。決まった時間に来られない。来たけど部屋の隅で震えてるだけ、自他に危害を加えるという人は稀に症状の波でそうなることはあっても、常態化している人はいません。

要は他者から見れば、同じ時間に電車に乗って、格好も普通で(汚い人もいますが…)、人とお話できる人達です。

色んなテーマの講義を聴き、それを元に何度も何度も同じテーブルの方達と話し合う。さらに、それぞれの依存症の方達を集めたグループで同じように依存症になる仕組みを学んで、話し合う。他にも色んなプログラムがありますが、座学は基本的にこんな感じで行われています。

依存症なのでいろんなものがありますが、その病院では薬物・アルコール・ギャンブル・性(盗撮とか)…がメインでした。

お話し始めるとね凄いんです。

ある方は「先週○○刑務所から出所してまいりました!」とか、「過去6回計12年収監施設で過ごしてきたのにやめられなくて藁にもすがる思いでまいりました」とか「今直近で起こした件の裁きを待っているところで息子が見つけてくれて片道3時間かけて来ました」という人ばかりなんです。

みんな、一様にご自身の依存症で「困って」いる。治したいんです。

もうやめよう、やめたい、普通の生活を送りたい。でも繰り返しちゃう。

私がそこで教えてもらったことは沢山ありますが、依存症の方の脳内って何が起きているかというと「報酬系」と呼ばれる回路が回っちゃってるんです。

この報酬系回路というのは、引き金になる行動→脳の報酬系回路が回る→特定のホルモンが分泌されるという仕組みで、いったんこの回路が形成されると一生無くなることはないと現段階では言われています。

具体的に言うと

ドラッグを摂取→報酬系回路が回る→ドーパミンが出る→ドーパミンの量が減る→どん底気分になる→ドラッグを摂取→報酬系回路が回る→…

脳の特定のホルモン(快楽・興奮などに関わる)が出る回路なので、自分の「意思」とか「善性」とかでどうにかなるもんじゃないんです。

なので、その病院の結論(社会に出て良しとされる状態)としては「治った」じゃなくて(そもそも治らないから)、自分がどういう気分の時にその引き金となる行動を起こしてしまうかを学び、「コントロールできるようになった状態」なんです。

そのためにあらゆる医学的・脳科学的・精神医学的・心理学的知識を叩きこまれます。

そして、そのプログラムの過程では一切責められることはありません。(コントロールできるようになる状態が遠のくし、そもそもそういったストレスが発端となって回路まわしちゃうから)

そうやって非難されたりすることのない環境で「勉強」をし、その知恵がついた状態で自分の行動や習慣、感情を「見直し」、そういう状態に自分を持ち込まない訓練を受けます。

とはいえ病院ですし、引き金になる部分に発達障害があれば社会資源とコンタクトを取って並行して何とかしようとしてくれますし、精神疾患が隠れていれば同時に治療を受けますし、トラウマがあれば臨床心理士さんや看護師さんが同時にアプローチしてくれますし、ドラッグの方は基本「次」がないので薬をぬくための注射を並行して受けていく感じになります。

さて、本題に戻ります。

このような抗えない状態になった方が、「厳罰」でどうにかなるのか、治るのかということなんですよ。

何度も何度もそのある意味”傷ついた脳”で繰り返してしまう行為。

本人も家族も疲弊してボロボロになっているのに繰り返してしまう。

こういう方達が、恐らく一生何の法律に抵触する行為をしてこなかったであろう警察官や検察官、裁判官に「厳罰」を言い渡されて、入所する。

いったんクリーンな体にはなりますが、脳の中に報酬系回路は持ったままです。

出所したら簡単に引き金が生じ、また法をおかしてしまう。

私は見方が変わりました。

「知らない」ということは恐ろしいなと。

人と人とは分かり合えないーこれは私の対人スタンス。

でも、「分かり合いたいしそのための努力はしたい」んです。

私はデイケアで沢山の友人が出来ました。尊敬できる人に会いました。今でも交流を続けています。

その中で思うのは、「治らないならコントロール」という発想の方が、司法機関は本当に必要な人間にだけリソースが割けるし、本人も自分の人生を思い通りに生きていけてハッピーだし、ご家族もハッピーだし、社会全体として見れば治療を受ける・受刑者が増えるよりは働いて納税してくれる人が増える方が良いということ。

ということで、とっちらかった上にまとまりのない長文をお読み頂きありがとうございます。

『とある芸能人が大麻で逮捕されたという話題に対する私の考え方』

この投稿に対して、「厳罰に処すべし」というような、特に複数の20代男性から以下のような主旨のコメントが、多数寄せられました。

「私はそうは思いません。何でもかんでも精神疾患など、病気のせいにして罪を逃れる人のなんと多いことか。そんな日本だからダメなのです」

私は何も「犯した罪を精神疾患のせいにして逃れたらいいのに」と言っているのではありません。

実際、私がデイケアであった友人も、その「依存症」から罪を犯してしまい、何度目かだったので刑務所に収監されました。

彼女は年齢的には高齢者であり、私にとっては「母と近い年齢」です。

でも、私を褒めてくれたり、楽しいお話をしたり、人を見る目が公平であったり、「人として尊敬できる」のです。「人として付き合いを重ねていきたい魅力がある」のです。

ご結婚されてもいて、お子様はとっくに独立されており、ご主人と二人で暮らされていましたが、今回のことを受けてご主人からは「面会にも行きたくない。」と言われていらっしゃいました。

この方ご自身もその依存症や現状を「恥じて」おり、「何とかしたい」と考えているのに、何度も何度も繰り返してしまうのです。

そのため、デイケアで同じような問題を抱える人の中でも、「私にだけ」収監されることを伝えてくれ、私も今後もお付き合いをしていきたいと思いましたし、年齢的にも辛いであろう刑務所での生活を思って、お手紙や差し入れをしたいと思い、住所をお伝えしました。

「脳の中に回路が仕上がって」いて、あらがうことができない人を、「自由を奪う方法で拘禁することで反省を促す」という方法は、果たして「脳科学的・精神医学的」に理にかなっているのでしょうか?という疑問を呈しているのです。

私は交通事故の後遺障害で字がほとんど書けません。そのため、お手紙もPCで打ってプリントアウトした物でのやりとりでしたが、差し入れて本も度々差し入れさせて頂き、また冬は手足がかじかんで眠れないほどだと伺ったので、お金も差し入れて「ホッカイロ」などを刑務所内で購入して頂きました。

真摯な態度が認められ、刑期を3ヶ月も早めて出所されました。

まだ、お会いできていませんが、是非お会いして、これからも友人として交流を続けていきたいと考えています。

人生は一度きりです。また、「人生の主人公には自分しかなることができません」

苦しいことも、大きな選択がものすごいスピードで迫ってくるのも人生です。

でも、良いことも悪いこともすべて自分が受けきって行かなければならないのが人生です。

この方は、私が鬱でつらいこと、母との関係で辛い思いをしていること、それでも月に1度は実家に行き手伝っていることなどを手紙でやりとりをしたら、まだ収監されているのに「私にできることがあれば何でも言って欲しい」とおっしゃってくださり、出所後は「私は若い頃美容師の資格を取得し、定年してからは飲食店でパートしかしていないけど、鬱で外に出て髪を切るのが辛いならお家に行って切るからいつでも言ってね」と言ってくださいました。

罪は罪として裁く必要があるのが、法治国家日本だと思います。

その上で、再犯を繰り返したり、そもそも「犯行に至る前」に重要になる社会資源が「福祉」の分野です。

あのとき、誰か一人でも支えてくれたら。

あのとき、誰か一人でも相談できる人がいたら。

あのとき、誰かが一食でも食事をごちそうしてくれたら。

そういう、社会の狭間、制度の狭間で苦しんでいる一人ひとりに、「何かをすることができれば」あるいは「社会のリソースを割くことができれば」、もっと司法機関を圧迫することもないし、再犯の機会も減るし、本人の持つ「困った部分」を抑え、「魅力的な部分や才能を生かす」ことができれば、社会全体としてもよほど有効だし、その方お一人お一人の人生、その方を支えるご家族にとっても、幸せや充実度が高いのでは無いかと思うのです。

本書は実際に裁判において司法で裁かれた方々の生の声を読むことができる一書です。

犯罪者が憎い。(理由はうまく言えないけど)という人には不向きだと思いますが、社会全体として、一人一人がもっと力を発揮していけるにはどうしたらいいのか。

あるいは、ご両親が老老介護であったり。

シングルマザーで行き詰まっている友人がいたり。

そんな方には、他人事とは思えない本だと思います。

ご興味がある方は、是非お手にとってみてください。

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