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#5 大卒でフリーターに、そしてそこから最年少店長へ。

さて、ここでは#4から少しだけさかのぼり大学卒業時の事に関して触れてみたい。

前章で記載した通り私はほぼ全敗だったものの、学生時代はひたすらビジネスに取り組んでいた。だが、そんな私も一応就職活動は行っていた。
これは最低限のリスクヘッジと大学まで行かせてもらった親へに対して一応メンツを保つためだった。

私はここでも面接の強さを発揮し、就職活動3か月ほどでさらっと4社ほど内定を決めてしまった。
そして最終的に一つに絞ったのがユニクロでおなじみのファーストリテーリングだった。
ここは起業家精神をかなり大切にしていたため、私と相性が良さそうだなと感じてエントリーをしたのだった。特別アパレルには興味はなかったが、いわゆる名の知れた大手からの内定にひとまずほっとしたことは覚えている。
両親に内定の報告した際もそれなりに安心してくれていた。

そして内定式に参加したのだが、結論からいうこの内定式が終わった翌日に私は内定を辞退してしまった。
他の同期のメンバーは内定式でやる気に満ちていたように見えたが、私はむしろこれから雇われとして生きていくことが怖くなってしまい、周りと考え方があまりにも違って孤独を感じていたのだ。

こうして私は卒業後の進路がいったん白紙になってしまった。


家族会議

内定を辞退したのが10月だったが、私は3月の卒業間際まで親にこのことを言い出せなかった。
だが、いよいよ卒業が迫ったタイミング私はいよいよ親に説明するために家族会議の時間を設けてもらった。

ちなみに、私は学生時代にビジネスをかじっていたことはなんとなくは知っていた。
だが、私が内定を辞退して今後は自分のビジネスで生きていくつもりということをつげると母は泣いていたと思う。
母は保育士だったので本当に就職もせず自分でビジネスするなんて考えられない!といった感じだった。
父はそれほどビックリした様子では無かったが呆れにも近い感情だったような気もする。もちろん父も国税庁で努めていたため多くの路頭に迷った経営者などを見てきていたので、本当はやめて欲しいと思っていたとは思う。
最後は「お前の人生だから他人に迷惑さえかけなければ好きにしなさい。」
という言葉をもらえて家族会議は静かに幕を閉じた。私は少しだけ肩の荷が下りた様な気がした。

そんな家族会議を経て飲食人としての道を歩み始めることになったのだ。

最年少店長に。

前章でも触れたように私はイタリアンでの仕事に没頭していた。
そして会社が店舗展開していく中で、私は1号店の店長を25歳の時に任されるのだった。当時社内では5店舗あったが私は最年少店長であった。
そして店長初年度から素晴らしいメンバーにも恵まれ、初年度から最高の結果を残すことができた。
初年度の12月には当時1500万円が最高売上だった店で1800万円をたたき出すことができたのだった。年末のある日、1日で180万円を売った日があるのだが、その日の最後は記憶が飛んでいて気づいたらお風呂にいたということもあった。笑

そしてその翌年には新店舗の店長に抜擢され、年収も700万円ほどとなり
25歳としてはだいぶ高い給料をもらっていた。

そんな順風満帆な店長生活を送っていた私は”起業”というものをあまり意識しなくなっていた。
だが、そんなときに再び起業を意識し始める出来事が起きたのだった。

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