最高の味はレストランを出た後に
さてね、忙しい日が続いているけど、久しぶりに書こうかな。春先なのでね、現役時代はもっともっと忙しかったしな。
場を再定義する、ね、やっぱり良いテーマ。
だって今だから出来る、今だから分かるってことが沢山あるしね。そこが人生の醍醐味。
タイトルもね、僕がよく話すこと。
本当に素晴らしい料理ってなにか。
本当に美味しいものってなにか。
それは舌先だけで感じるものではない。
もっと先にあるもの。もっと奥深いもの。
結局のところレストランを後にしてから、分かるものなのかも知れない、って。
これは何も料理だけてはなく、あらゆる良いものが本来はそう言う性質のもの。
後で分かる、後でしか分からない。
それは後味なんて単純なものではないし、記憶は不純物を濾過するから、最後に美しいものが残る、ってそれもまた深いテーマだけど、それともちょっと違う。
だからね、徹底的なやれ、っていうのもね、特に若い時にとことんやらなきゃならないのも、その時の為、その場の為ではない。
だからこそ理屈は要らない。
後で分かる、後で見える、ってやつで。
そこが何より大事なところ。
何事もね、そう言うもので逆にその場で分かってしまう、見えてしまうものなんて大したものではないから。
だからこそ、ね、場の真骨頂なんてのは今見えてる訳でね。今が楽しいし、今が1番幸せ。
現役でね、頂点に立ってるような時なんてただただしんどいだけでね。まあ、それも価値あることなんだけども。しんどいことなんて素晴らしいことだからね。
僕らは楽するため生まれてきてないからね。
簡単なことなんてやる価値のないことだよ。
負けないのは勝てる勝負しかしてない証拠。
失敗しないのはより困難なテーマに挑んでいない証。
ね、だからやってやって、ね、それでこそ見えてくる。しかもね、全部ずっと後でだよ。
場を再定義する、うん、ね。
場は人間の本質を透明に透かして見る。
鏡の様な存在になること、ね。
とこまでも透明に。
だからね、濁ったこの世界ではそのままでは生きられない。ちゃんと純度落としてとぼけられないとね。
人も寄りつかない。
だって人間、ずっと目の前に鏡に立たれては息苦しいでしょ。
見えちゃうんだけどね、そこをとぼけないとね。
因果な生業、と何度も思ったもの。
わざと騙されてあげたり、わざと気づかないふりしてなきゃ、ね。
だってね、場の目線で見てしまうと、ちょっとの、ほんの少しのね、一瞬の不順さ、作為、いやらしさ、打算、ズルさ、汚さ、ね、見逃せないからねぇ、それ全部気づいてますけど、ってやったらね、みんなしんどいからね。そのまま生悟りみたいに生きたら周りから人は消えるしね。
でもね、最初はどんどん濾過されて行ってね、視界が明晰になってくるとね、なかなかこの世のレベルでやってくのも大変なわけで、ね。
だってね、誰にも幻影抱けないからね。
大体はみんな錯覚だからね。
何に対しても幻想ないからね。
だってそれらの幻影、錯覚、幻想をね、正確に扱うのが僕らの仕事だからね。
そうすると何もないんだよね、普通にこの世的なレベルではね。それを平然と受け入れながらね、それでもこの世で普通の振る舞いが出来るようになって初めてものになったと言えるんじゃないかな。
そう言う世界にね、少年の頃から飛び込むなんてのはね、この世的には不幸以外のなにものでもないからね。僕の場合はもう運命に定められていたからね、選択の余地もなくね、だから迷いも無かったし、後悔もなかったけども。
でもね、そこから出て、帰ってきて、あー、ほんとに上手く出来てるなぁ、ってつくづく思えるからね。
有り難いなって。ラッキーだったな、って。
最高に幸せな人生だな、って。
だから全部やっておいた方が良いと思うんだよね。
今は分からないよ。その場ではね。
最高の料理はレストランを出た後に分かるもの。