最後のもの
結局、いつかはそこまでの話をしてみたいと思ってるんだけども。
場は最後のものまで見せちゃうからね。
身体も心も無くなって、もう凝縮された一点みたいな、ね。
最後の場所に立って、そこから始める。
見てる景色が変わらないと場じゃない。
生きてる世界が変わらないと場じゃない。
じゃあその最後のもの、最後に目が捉えるものは何かって、そう言うね、究極の話ね。
そこまでいつかねシェア出来たら、これ面白いよね。
でも場ではいつもそうやって、みんなで果まで行ってね、見てた訳だから。
いや行かざるを得ない人達と、行かざるを得ない実践をしてきた訳だから。
まあ、最後はね、みんな見るもの一緒わだから。
そこまで行くまでにね、個性とか出て来るわけだけど、そう言うもの全部脱ぎ捨てて進むからね。
神の目が世界を捉えてるような、そんな眼差しだけがある世界へ。
もう誰も居なくて、その曇り無い目だけがある。
認識の極点で。
何もかもが幻で幻影であることを明晰に捉えて、そんな全てが消えているのに、その認識の眼差し、透明な純粋な光が、1つの収斂された結晶の様な一点が、それだけが残って、それはただただ静かに認識している。
僕らは場に入って、場の中で色んなことを知り、場の中で再び生きるのだけど、最後は場そのものになってしまっていることに気づく。
小道具、設定は全て消えて、最後にそれだけが、それだけが残っている。
場の話もまた、こう言うところまで辿り着くしかないだろう。
でもね、色々やらなきゃ、全部やらなきゃ、そこには行けないんだよね、多分ね。
人は経験するために産まれてきた、って言うのは恐らく本当だろう。
経験の果てに全ての経験が消えて、認識の深みの中で大いなる沈黙が。
そう言う意味では秘中の秘とも言えるエッセンスシリーズの更に先があるってことなんだけど。
いずれにせよ、場は最後のものまで見せてくれる。
そう言うものだ。