
天馬、空を行く
場での仕事とか、関わりとかって言うものを、僕は芸事と捉えています。
そうした時に、やっぱり芸がないとか、技がない、センスもなければ、訓練もない、と言うしょうもない状態で現場に入ってる人達が沢山います。
現場と言うのは人間性もまた全面に現れてしまいます。スカスカのペラペラ、なんにも無い、なんて現場があります。
はい。
だからね、前回言ったようにね、見てて腹が立つと言うかね、だから僕がね、場に入ってやるしかないんだ、ってずっとやってきましたね。
どんな場も良くなりますね、入れば直ぐにね。
でもね、そう言うのじゃ駄目なんですね。
それをずっとやってたんではね。
そのことに気がついたのは高々数年前でね、偉そうなことは言えません。
20年以上前だけど、指摘されたことはあったんです。
まだ夢中でしたからね、何言ってんだ、と相手にしなかったですけど。
それは上手く行くでしょって、また佐久間くんが行けばいい雰囲気になって、それは上手くは行くよ、でも、それは他の人にはやれないことだよ、後の人、残った人に繋がらないよ、って。
その頃はね、そこまで知らんわ、でしたね、正直。
で、10年、20年経ってね、やっと気づきましたね。
そら良くなって当たり前、やったら良くなるよ、って。そう言うのに、なんと言うか、やっと飽きました。決まり切ったこと、分かりきったこと、やっても仕方無いよね、って。
だから必死こいてね、伝える言葉探してる訳ですよ、こうしてね。
或いは仕組みまで作らないにせよ、仕組み作る人間にまで何とか繋げないかな、とね。
いやいや、そこまで行けるとは楽観してませんね。
せめてね、こうしてこう言う世界があったっていうね、記録を、ですね。何度も言うけどもう遺言です。
はいはい。
そんな話ばかりじゃ仕方無いので、今日のテーマですが、このページはずっと人間の沸点、人間のピークと言うものを人間の可能性のモデルとして見て来ました。いつでも根っこにあるテーマはゾーンなんですね。僕はゾーンをやはり場で知りました。
それは自分のゾーンもそうだし、相手のね、1人1人をゾーンに入れるのが僕の仕事でしたからね。
今回は「自在を得る」と言うタイトルを考えてました。場においてゾーンの中にいる場面を幾つか振り返ってみていたんですけど、まあ自在なんですね、何処にでもどこまでも行ける、身体が無くなった様な感じなんですね。もう無尽蔵。そこに立ってるだけでね、なんでも可能と言うか、立ってることそのものが完璧な訳です。そう言う体感、自在を得たなら、もう場を去って良いよ、って話を書こうかな、と。
それで自在を得る、って言葉を浮かべてたんですけど、もっと詩的なというのか、イメージで言えば天馬空を行く、ってあれですね。本当に天馬、ね、空を駆ける様な、ね。
そう言う自在とか自由って言う完全に突き抜けた世界にね、僕らは場を通して行けるんですけど、でもね、これも逆説ですね。
と言うのはね、場に入って最初に見えて来るのは無数の条件なんですよ。条件って言うのはつまり制限であり限界な訳ですね。身体的な、或いは精神的なそれぞれの置かれたね無数の条件をね、全部拾わなきゃいけないんですね。悲しみも苦しみも怒りもね、それぞれがみんな持ってますけど、そう言う個人の感情ってそれぞれ背景もストーリーもあります。もっと突っ込むと家やら性別やら国やら伝統やら、ともっともっと大きな背景がね、動機がね、動いてる訳ですね。
そう言うの全部掘り起こして扱いますから、当然ジャンブは出来ない。力技は出来ない。
制限は踏まえなければならない。言い換えれば条件を飲むってことですよ。限界を受け入れるってことです。だからね、場における身体、場における僕、と言うのはがんじがらめの拘束状態から始まるんです。
いや寧ろそう言う身動き取れない状態に、どこまでも縛り付けられ行けるのか、どうか、そのがんじがらめをどこまでも身体と心で受け止める、これが役割りなんですね。言葉を変えたら、何一つ断わらない、ってことですね。
こう言う状態に深く入り込んだ先に自在を得る、って世界へ出て来るんですね。これがね、僕は真実であると共にね、美しいと思うわけです。
種みたいなものですよ。地中にね、埋められてね、じっとね、条件の中でうずくまってる。
その先にね、大空のような限界のない自由がね、はい、天馬空を行くが如く、なんです。
重い足枷をね、どこまでもね、受け入れた先なんです。これはね。そこがね、また言いますけど美しいところです。このがんじがらめの拘束された状態がね、だから本当に愛おしいと言うかね。
ここがね生身の人間がね、こう言う姿になってる訳ですからね。ここに何かね、感動すらあります。
で、パッと解き放たれる。凄いんです。もうこれ。
素晴らしい。
僕もね、場において、この自在を得る、って感覚だとか、走ってるようにね、立ってる感覚ですね。
それはね、もう走馬灯のようなものですね。
もしこの場での感覚を獲得してなかったら、見ても分からなかったな、って思うわけですよ。
例えばショーヴェ洞窟の壁画であるとか、ね、芭蕉の旅に病んで夢は枯野をかけ廻る、とか、ね。
色々ありますけど、そう言うもののね、真相とか深層に何があるか、あ、あれだね、ってピンと来るのはね、この場での自在を得る、ってことがあるからなんですね。
考えてみたら人間、産まれて来たその時から、身体やら物質的なね、限界を引き受ける訳ですよ。
だからね、場でのことって、人間の本質をついてますね。
はいはい。
今日もなかなか深い話になりましたね。
予告している修行時代の物語、「親方と僕」についてもね、そろそろ手をつけなきゃですね。
はい。やりますよー。
でもまだちょっと待ってね。