半年
秋めいてきて、赤ワインが美味しい。
静かな土曜の夜に。親友に誘われ特養相談員の肩書になって今月で半年かと思い、なにか書いてみようと思った。
援助者として、大切だと思うことについて。
3つ、挙げてみる。私は、どれが欠けてもいけないと思っていること。
まず、勉強している、ということ。
大学4年生の夏。精神保健ソーシャルワーク実習で、都立松沢病院と、隣接する中部総合精神保健福祉センターでPSWの実習を受け入れてもらったとき。
一人の実習担当の方から
援助者が「知らない」ということは、罪だと、私は思うようにしている
と話されていたことを、今でも思い出す。
藁にも縋る思いで相談に来てくれたクライエントに対し、プロとして関わる我々が、その人にとって最善の選択肢を提示できるか否かで、その人の人生が大きく変わってくる。
その実習担当の方は、現場で相談援助に従事する傍ら、筑波大学大学院で学んでいると言っていた。
私が確信していることの一つだが、対人援助は、決して感覚だけでは出来ない。
勉強して、理論や実践の型をいかに身に付けられるかにかかっている。
対人援助は形に残らないためその質が分かりにくい性質はあるが
見る人が見れば、それは火を見るよりも明らか、ということなのだと思う。
あと、悩める、ということ。
重度障害者グループホームで働いて4年目、東京都のサービス管理責任者研修を受けた時、どこかの病院のMSWの方が講師だったが、「ネガティブケイパビリティ」の話に多くの時間をかけていたのは割と意外で印象に残った。
ソーシャルワーカー(ケアワーカーももちろんそうだが)を職種として名乗る以上、個別性は一つの大原則で、「その人の最善」を様々な援助技法を駆使して検討していく。
その時に、ソーシャルワークの価値観と、所属する組織の価値観(例えば経営的なことやリスクマネジメント的なこと)や制度上の限界との間で、必ずコンフリクトが生じる。
ソーシャルワーカーは常に板挟みになるのが宿命であり、その中で悩みながらも、あくまで「クライエントの最善の利益とは何か」の立ち位置に、時に歯を食いしばって踏みとどまらなければいけない。しんどいけどそういう仕事だから仕方ない。
このときに、「施設のルールなんでわかってください」のような(相手の性質によってはそういう言い方が必要な場合もあるとは思うが)マニュアル一つあればだれでもできるような事務員的対応をとってしまう援助者が、残念ながら一定数いる。その対応は、プロとは言えないと、私は思う。
本人の利益と組織の利益間の葛藤は、解決が困難なケースのほうが多いと思う。
というかそもそも人間相手の仕事なのだから、バッチリ解決できるケースのほうが圧倒的に少数のはずだ。どんなに勉強したとしても、それはそう。
そのときに、何もせず、ただ本人のそばにいる、ということができるか。
目の前の問題に対して、誰でも一応はスッキリしたいから、適当な答えを見つけたがるが、それが本人にとって良いのかちゃんと考えてみると、微妙だったりする。
問題を、グレーなまま、傍らに置き続ける忍耐力をもてるか。
ネガティブケイパビリティ、悩み続ける力も、援助者にとって欠かすことができない。と私は思っている。
最後は、センス。
二つ目を結構熱を込めて書いたら疲れちゃった。
センスのことを書く気力がもうないが、勉強量×センス=援助者の実力と思っている。
というか二つ目の悩む力もセンスに含まれるか。
これは私の感覚(センス)として
障害者福祉にいたときは、「経験」が最も大事だと思った。
障害のある人は、特に対人面で、経験が少ない(奪われてきた)と感じた。
だから、我々支援者と、時に真正面からケンカしぶつかり合うという経験を共にする中で、お互い成長していく。それは障害者福祉ならではで、とても面白かった。
失敗していい。支援者や親が代わりにやることで、失敗するという経験を奪ってしまうことが、最もダメなことだと思っている。
精神科医療にいたときは、PSWとして大事なことは「歴史と人権」だと思った。日本の精神科医療の歴史を知り、必要な反省を行い、精神障害の人の人権を守ること。まだまだ日本の精神科医療はその過渡期にいると感じた。
病院なので、やはり評価の場であり、またミスが許されない医療行為も多いため、独特の緊張感があった。
そして今いる高齢者福祉は、「生きがい」だと感じている。
高齢の人たちは、今までたくさんの経験を積んでこられた方たち。そして、人生も締めくくりの時期にきている。
その非常に大切な時間を、いかに快適に生きがいを持って過ごしてもらえるか、といったところが最も大事なのだと思う。好きなものを食べて飲んで、人によってはタバコも吸って、その人らしく亡くなっていくことを叶える仕事だと思う。
児童福祉や障害、医療より、高齢の場合は、リスクマネジメント的価値観をごく必要最小限にとどめる努力をすべきなのかな、という感覚がある。
「生きがい」を提供できず、ただ張り合いのない生活になってしまっているとしたら、それこそ最大の「事故報告」と捉え、対策を考える必要があるのではないだろうか。
さて
だいぶワインが進んだ。
やっぱり、秋はいいねぇ
では。