普遍と芸術たまにオッカム
10/23(金)のメモより「普遍と芸術たまにオッカム」
オッカムの剃刀の意味合いを間違って捉えていることに気づいたのは2ちゃんねるのまとめを読んでいる時であった。何事も馬鹿にはできないものである。普遍論争あたりではお馴染みの名前「オッカムのウィリアム」。オッカムに生まれたウィリアムということらしい。パターンで言うと、レオナルド・ダ・ヴィンチと全く同じである。
オッカムの剃刀というのは、「正しく結論を導けるならば、仮定はなるべく少なくしよう」という、いわゆるケチの原理のことを指すらしい。例えば仮定aからdまで用意して、Eという結論を出し、見事に証明完了して見せたとする。しかしもし仮定bとdは不要、つまりは仮定aとcを用意するだけで同じ結論Eを導けるならば、仮定aとcだけを使って証明する方が良いということだ。この不要な仮定bdを剃刀で削ぎ落としていると準えて、「オッカムの剃刀」。…かっこいい。日常使いが出来なさそうなのが残念だ。
オッカムは、普遍論争の中で唯名論を唱えた神学・哲学者としても知られ、信仰と理性を分けた考え方はとても画期的だった(知らんけど)。論理や合理性を追求する心、つまりは理性を持っていたとしても(物理法則とか、いわゆる常識的なこと)、神はそういった法則やお決まりを超えてくるヤベー存在なので信仰心さえ持っとけば大丈夫という考え方、と私は解釈している。
そもそも「普遍論争」という名詞自体にあまり市民権はないのだろうか。私は3日に1回は普遍論争について考えるが、他の人は年に1回くらいしか考えないかもしれない。ここで言う普遍とは、「個々のものを超越して存在する概念」。例えば「人間」という普遍的な存在は実在するか、それともみんなの心の中にしか存在しないかということをずっと言い争ったのが普遍論争である。キリスト教世界などにおいては原罪の概念などとも絡み合ってくるため大変意味のある議論なのだという。
人は、普遍的概念に積極的に身を委ねたがる存在なのかもしれないと思うことがある。○○とは××、こうはっきりとしたものを追い求める。善とは、正義とは、と、常に正しい答えを見つけたがる。自由は却って人を苦しめるだけなのだと教えてくれたのは歴史だ。既定された事実の中に身を置いておけば、何も考えずに済む。責任を負わなくて済む。そういった存在たちがいざ「生きる意味は何か」などといった答えのない問いにたどり着いた時、どういった対応をするのかは見ものではあるが。
「芸術とは何か」。芸術という不確かな言葉もまた、一部の人間によってある意味普遍化されてしまった被害者のひとつではないかと私は思っている。とある「もの」を指さしてそれが芸術作品であるかそうでないかの議論をすることに、それほどまで深い意味があるとは感じられない。それを芸術と捉える人もいればそうでない人もいる。ただひとつ言えるのは、芸術と娯楽は違う、ということだけだ。自分自身がそれを楽しめないからと言って、芸術であることを否定するのはあまりにも利己的過ぎる。
普遍的な「芸術」この概念を口頭で説明できないくせに、「芸術」とは何たるものかは各々なんとなく把握している。それは、あくまでも「自分の中での芸術」の有り様を、自分自身で理解しているに過ぎない。ひとりでもそれを芸術と評する者がいればそれは芸術作品になり得るし、それに反対する評価をする者もまた存在する。どちらが間違っているとかそういう次元の話ではない。ただそれでいい。
そもそもオッカムだって神しか信用していなかったし、オッカムの剃刀のくだりでも「仮定とか証明とか言ってっけど結局ガチで信じられるモンなんて神しかねーから」みたいなことを言っていた、という記述があるとかないとか。世の中なんてそんなものだろう。