【コラボ小説】ただよふ 16(「澪標」より)
ダイヤモンド・プリンセス号内で発生した新型コロナウイルスの集団感染が報じられた時、僕は客船で働いている弟の千洋のことが心配になって、電話をかけた。
「俺が働いている船では陽性者は出ていないけど、風評被害で予約がキャンセルになって、休みの日が増えたよ。」
弟は僕に心配かけまいと思ったのか、不自然なほど声が明るかった。
「千洋、大丈夫?僕に出来ることがあったら、言ってね?」
「あ~、兄さん。俺はもういい大人だよ?何でも背負い込もうとするの兄さんの悪い癖!…でも」
弟は言葉を詰まらせた。
「……実咲さんの子育てが大変な時に、兄さんが仕事をセーブ出来なかったの、俺のせいなんだよね?」
「それは」
違うと、僕は言い切れなかった。
母と大学生だった弟を支える為に就職して数ヶ月で、僕は実咲さんと結婚した。妊活の為に数ヶ月休みをとっている間、実家の仕送りを中断してしまった。仕事のチームが変わり忙しくなった時、嘲笑から妻を守り、実家に仕送りを続ける為には、激務をこなし続けるしかないと、若い僕は思いこんでしまっていた。
「母さんも俺も、兄さんに依存していたんだって、実咲さんが体調を崩すまで、気づいてあげられなかった。今更だけど、ごめんなさい……」
電話ごしの弟の声は震えていた。
「千洋、謝らないで!実咲さんが病になったのは、男として僕が未熟だったせいであって、君や母さんのせいではないから」
「兄さん、自分を悪く言わないでよ。兄さんが頑張っていること、僕は知ってる。兄さんは他人に助けを求めることが苦手だってことも、知ってる。だけど、俺は何もかもを背負い込みすぎて、兄さんが潰れてしまわないか心配なんだ。頼りない弟かもしれないけど、時々は俺を頼ってほしい」
「千洋、ありがとう。千洋は頼りなくなんかない。僕にとって、自慢の弟だよ」
僕は目頭が熱くなった。
「兄さんは本当真っ直ぐだなあ。そういう所、母さんそっくり!」
「千洋、母さんから聞いてると思うんだけど…実咲さんの火遊びのこと…」
「うん、母さん怒ってた。兄さんよりも実咲さんと歳が近いからか、どうしても嫁というより女性同士の目線になってしまうから、なおさら腹立たしいんだって」
「僕たちのことで、迷惑かけてごめん。母さんにも伝えておいて」
「分かった。俺は兄さんがどんな選択をしても、敵には回らないからね。母さんのことは、俺に任せてよ」
僕は、弟の『母さんのことは任せて』という言い回しが、実咲さんを支える息子の航平にそっくりだと思った。
土曜の午後、僕はあなたと、あなたが淹れてくれたペパーミントティーと、あなたが焼いてくれたパウンドケーキを食べながら、ニュースに耳を傾けていた。
都内の今日の新型コロナウイルス感染者数が報じられていた。感染者、重症者、死者の数は毎日報道され、感染者の延べ人数は日々増加していった。濃厚接触者、手洗い、マスク、三密、ソーシャル・ディスタンスなどの言葉が、連日メディアにあふれるようになり、誰もが無関心ではいられなくなっていた。
「マスクの入手が難しくなったけれど、あなたは大丈夫ですか?」
「私は軽い花粉症があるので、幸い買い置きがありました。あなたは?」
「僕も使い捨てマスクが何枚かありますが、使い切ってしまったら、どうしようかと思っています。今はアルコールで消毒して2-3日使っています。もう手遅れかもしれませんが、ネットで購入できないか探してみます」
「こんなこと、そう長くは続きませんよね?」
「そうあってほしいですね。そうそう、先日、運営部の松嶋部長と、営業部の雨宮部長、僕と志津で話し合って、試験会場での感染防止対策についてマニュアルを作りました。クライアントに提示して、先方がさらに厳しい対策を希望するようなら、それに合わせることにした。営業部全員への通達が必要だから、週明けにミーティングを開きます」
「了解しました。ところで、先週、運営部が、マスクを入手できない登録スタッフ用に、会社の在庫をかき集めてました。当面はどうにかなるかもしれませんが……。こういう事態は想定外でしたからね」
「うん。総務が頑張ってくれて、フェイスシールドを大量発注できたようですが、マスクやアルコール消毒液は厳しいようです」
「早く以前の日常に戻ってほしいですね」
「本当にそう思います」
僕は、重くなった話の流れを変えようと、思い出したように話し出した。
「そうそう、あなたが勧めてくれたダン・ブラウン『オリジン』読みましたよ。科学と宗教が対立するのではなく、手を取り合って人類の危機に立ち向かうべきという著者のメッセージが力強く反映されていて、心に響く作品でした。彼は『天使と悪魔』の頃から、そのテーマを追求してきたことが伺えますね」
「はい。北関東の水沢が、ブラウンのファンなので、私も影響を受けて、原作も映画も制覇したんです。だから、彼の思考の発展が読み取れて興味深いです。彼の作品は、『天使と悪魔』、『ダヴィンチ・コード』、『インフェルノ』と映画化が続いて、どれも大ヒットしていますよね。だから、『オリジン』も映画化されますよね?」
僕は、パウンドケーキの上に乗せたバニラアイスをスプーンですくいながら言った。
「そうですか。僕はまだ『オリジン』と『天使と悪魔』しか読んでいないし、映画は1本も見ていないんです。でも『オリジン』こそ、いま映像化すべき作品だと思います。こんな時代だからこそ、科学と宗教が協力して危機を乗り切ることの重要性を訴える作品は必要です。僕は、映画よりは、連続ドラマにして、細部まで丁寧に描いてほしいと思いますけどね」
「確かにそう思います。映像化されたら、一緒に見たいですね!」
「うん、あなたと感想を話し合うのは楽しそうです。こうして、共有できるものがどんどん増えていくのはいいですね」
僕は顔をほころばせ、ペパーミントティーのおかわりを求めてカップを差し出した。
「暖かくなれば、コロナは収まりますよね。今年は夏が楽しみです。あなたと浴衣を着て長岡の花火を見に行けるし」
「僕も今から楽しみだ。あなたの言っていた土浦の全国花火競技大会を調べてみたけど、ぜひ行ってみたい。イス席はインターネットで購入できるようだから、売り出されたら押さえておきましょうか」
カップを受け取った僕は、仕切り直すように低い声で話し出した。
「あなたには伝えておきます。以前、ここ数か月の妻の軽率な行動について、お義父さんとお義母さんに手紙で知らせたと話しましたよね。あれから、お義父さんから電話をもらいました。平謝りで僕に理解を示してくれました。もう十分だから、僕の好きなようにして構わないとまで言われました。高齢のご両親に心配をかけたのに、寛容に受け止めてくれる器の大きさに敬服しました。妻はご両親に注意されたらしく、僕は些細なことを大袈裟に告げ口をしたと責められました。妻は、いままで病気で好きなことができなかったのだから、お洒落をして友人と会って何が悪い、そこに男性の友人がいたとしてもそんなに咎められることではないと言い張り、自分には友人に会う自由もないのかと理詰めでまくしたててきました」
「奥様、大丈夫でしょうか? 御病気がそうさせるのでは……?」
「僕が見る限り、いまの彼女は、今まで見てきた軽躁状態ではありません。ここ数年の彼女はまともです。仮に軽躁状態だったとしても、もう僕が限界です。両親が醜い言い争いをする姿を毎日見ている息子への影響も心配です。近いうちに、この沿線か、会社の近くの物件を調べてみます。あなたは何も心配しなくていいですよ」
僕は、2年も耐えられない、すぐに離婚は出来なくても、あなたと一緒に暮らしたいと思うようになっていた。妻には支えてくれる息子がいる。僕の存在が妻にとって束縛だというのなら、経済的に支えて別居した方が、お互いの為だと感じていた。
予想以上に早く進行していく事態に、あなたは気持ちが追いついていないようだった。
東京オリンピックの1年延期が決定しても、僕は新型コロナウイルスが僕たちの生活にもたらす影響の大きさに気づいていなかった。
僕もあなたも、まさかあんなことになるなんて、思いもよらなかったのだ。
今回はmay_citrusさんの原作「澪標」14話の前半のお話です。