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【コラボ小説】ただよふ 11話(「澪標」より)


あなたのアパートに泊まった翌日の夕方、大阪の里帰りから妻と息子が自宅に戻ってきた。

「父さんも一緒に来れば良かったのに。」
と笑顔で言う息子に、
「母さんも親子水入らずで里帰りを楽しみたいだろう。」
と僕は答えた。

僕は大阪の義父母と妻たちの輪に、未だに溶け込めないでいる。
妻が病気になって実家に帰ってから、僕が東京で単身働いている間に出来上がってしまった強固な絆は、僕に疎外感をもたらした。

妻が「双極性障害」と診断された時、義父母に離婚を勧められた。
実母ですら、「別れた方が良い」と僕に諭した。
鬱状態の時の妻も度々、離婚を口にする。

皆、僕を思いやっての言葉だって分かっている。
だけど僕には、「お前は必要ない」と言われているように聞こえてしまう。

僕は、妻や息子に「必要な人間」なのだと信じていたかった。


営業部の向かいに位置している会議・学会運営部から視線を感じることがあった。
この部署は、会議の設営、受付、運営を担っていて、春からあなたの同期の竹内くんが異動してきた。

「…時々、竹内くんがこちらを伺っている気がするのですが」
休憩中、僕はあなたにこっそり尋ねた。
「竹内くんが?何だろう……」
あなたは怪訝そうにしていた。

「気になるようでしたら、竹内くんに『ジロジロ見ないで』って、注意しておきますが」
「そこまでしなくても、大丈夫です。」

彼は僕とあなたとの関係に勘づいているのでは、という思いがよぎった。
もしそうならば、変に刺激するような発言はするべきではないと思った。

「今度、彩子が本社に出張して来るんですよ。
彼女と竹内くんと3人で同期会をするので、その日は会えないです」
とあなたは小声で言った。
「わかりました」
僕は笑顔を作った。

女性の水沢さんがいるならば心配する事はないと思うが、あなたは男に対して少し無防備なところがある。
以前あなたに『嫉妬したことありますか?』と聞かれた時、名前すら出せない位に嫉妬していたのが竹内くんだった。

嫉妬しているのは僕の方ばかりで、あなたからはそういう話を聞いたことがなかった。
僕は、黒い気持ちが胸の奥に広がっていくのを打ち消すように、「さあ、仕事に戻りましょう」とあなたを促した。


水沢さんが出張してきた日、あなたは親友との再会をとても喜んでいた。

「おはようございます、海宝課長。今日は宜しくお願い致します」
水沢さんは、明るい声は変わらないが、ショートだった髪が伸び、以前よりも綺麗になっていた。
きっと幸せな恋をしているのだろう。
あなたに我慢ばかりさせている現実を突き付けられたようで、僕の良心はジリッと痛んだ。

「おはようございます、水沢さん。こちらこそ宜しくお願い致します。今日のスケジュールですが──」
僕は終日、水沢さんの聡明な目に、僕たちの関係を勘づかれないよう注意を払っていた。


晩秋の日曜の昼下がり。
息子の航平は夏から始めたアルバイトに出勤、妻も友達と夕方まで遊びに行っており、家には僕1人だった。

午前中に家事を済ませており、本でも読もうかとページを開いたが、そういう気分にもならなず、本を閉じた。

「何だかモヤモヤする……」
僕は静まり返った部屋で、ひとりごちた。

妻がお洒落をして外出が増える位に寛解が続いているし、息子も自分の小遣い分を差し引いて家にお金を入れてくれるようになった。

それは嬉しいことのはずなのに、僕は言葉に出来ない不安を感じていた。

「…今、アパートに居るかな。」
僕は無性にあなたに会いたくなった。
約束はしていないし、来客がいるかもしれなかった。

僕が今から訪ねていいかと連絡を入れると、あなたから「もちろんです!」とすぐに返信されてきた。

僕は1時間も経たないうちに、綾瀬のあなたのアパートにやって来た。

「会いたかったよ」
僕は買ってきたフィナンシェの箱を置くのも、もどかしくて、あなたを抱き寄せた。
僕を待ち焦がれていたように、あなたも夢中で抱きついてきた。
僕たちは会えなかった時間を埋めるかのように、随分長い時間抱き合っていた。

「急に来るなんてめずらしいですね」
あなたは黒豆茶を淹れながら尋ねてきたので、僕は頷いた。
「最近は、妻が外出することが増えましたから」
あなたとの関係が、妻にばれてしまうリスクが減ったことは、素直に嬉しかった。
「来てくれてありがとうございます」
あなたはソファに掛けている僕に、限られた時間を止めようとするかのように抱きついた。

「映画を見ていたんですか?」
僕は、テーブルの上のパソコン画面をのぞき込んだ。
「これから映画を選ぼうと思っていたところで、連絡が来たんです。一緒に見ませんか?」

2人で相談し、理論物理学者のスティーブン・ホーキング博士と妻を主人公にした「博士と彼女のセオリー」を選んだ。
時間は2時間ほどで、夕方には帰宅する僕にも丁度良かった。

2人とも、すぐに物語に引き込まれた。

若きスティーブンとジェーンが大学で出会って恋に落ち、スティーブンがALS(筋萎縮性側索硬化症)を発症しても、ジェーンは彼との結婚を選んだ。スティーブンは余命2年と言われていたが、彼はそれを優に超えて生き、3人の子宝に恵まれた。

スティーブンの研究は順調でも、病気は進行していた。ジェーンは、ますます負担が増していく夫の介護、育児に追われ、自身のやりたいことを諦め、ストレスを募らせていった。

ストーリーが進行するにつれ、ジェーンを双極性障害の妻を支えてきた僕に重ねていた。

ジェーンは、母親に気分転換にと勧められた教会の聖歌隊に参加し、指導者のジョナサンと恋に落ちた。ジョナサンはジェーンの息子のピアノ指導も引き受け、家に出入りするようになり、一家の力になり続けた。

スティーブンは、ジョナサンがいることで家族がうまく機能することを理解し、割り切れない思いを抱えながらも、彼を受け入れた。

僕は、ジョナサンがホーキング一家と関係を深めるにつれ、彼にあなたを重ねていた。あなたはジョナサンのように、表に出られないが、僕の結婚生活を影で支えてくれている。あなたが僕の肩に寄りかかってきたので、僕はきつく肩を抱いた。

スティーブンの病状は、ますます進行し、彼は声を出せなくなった。ジェーンはスペリング用のカードを使用し、夫が眉の上下で意志伝達できるように努めた。ジェーンは、それに精通した看護師エレインを雇った。

有能なエレインとスティーブンは、長い時間を一緒に過ごすうち、恋に落ちた。スティーブンは、親指でスイッチを操作できるコンピューターで、音声合成し、意思疎通できるようになり、講演や論文執筆もできるようになっていた。

スティーブンは、ジェーンと離婚し、エレインと再婚。ジェーンはジョナサンと再婚した。

あなたは、スティーブンとジェーンが別れる前に、涙ながらに共に過ごした歳月を振り返る場面、ジェーンとジョナサンが結ばれる場面で号泣していた。

スティーブンがエリザベス女王から勲章を受ける場に招待されたジェーンが、彼と子供の成長を語り合い、感謝し合うラストが流れた。

僕はラストで泣いていた。
妻と、息子の成長を喜び、互いに労いあう日に思いを馳せていた。
あなたは、僕の妻への嫉妬と悲しみで、涙が止まらなくなってしまい、僕は困惑した。
僕はあなたと共鳴することが多いからといって、あなたの気持ちを慮ることを怠ってしまっていた。

あなたは妻に嫉妬しているのに、僕が決めた航路を進み続けるために、全力で支えたい、僕に家族を守るエネルギーを充電させ、送り出す役目でもいい、それ程の覚悟で僕を愛してくれていたのだ。

「目、温めてから帰ったほうがいいですよ」

僕はあなたに促され、水分を摂ってから、ベッドに横たわり、目の上に蒸しタオルを乗せた。
あなたも同じように蒸しタオルを乗せ、隣に横になった。

20分もすると、僕の目の腫れは引いていった。

起き上がろうとするあなたの手を引き寄せ、僕の胸の上に抱きしめた。

「あなたが、いつもこうして目の腫れを隠して、笑っているのかと思うと……」
僕は苦悩を目元に浮かべ、あなたの頬を包んだ。

「そんなやわな女じゃありません。余計なこと考えないでください」

それはあなたの精一杯の強がりだった。
僕が別れを考えるのを恐れているに違いなかった。
僕こそ知られてはいけない関係にあなたが嫌気をさして、別れを考えてしまうことを恐れていた。

「今度、どこかに出かけようか? どこか行きたいところはない?」
僕は、あなたの長い髪を梳きながら尋ねた。
「あなたの行きたいところがいいです。あ、もしできれば、会社の人に絶対に会わなくて、普通の恋人のように手をつないだり、腕を組んで歩ける場所に行きたいです」
「僕もそうしたい。あなたは、何か見たいものとか、食べたいものとかないですか?」
「それなら、冬の日本海が見たいです。以前、言っていましたよね。日本海の荒海がお好きだって。私、日本海は、小学生の夏休みに海水浴に行っただけなので、冬は初めてです」
「うん、僕もあなたに、あの荒海を見せたい。あなたと一緒に見たい」

僕は、あなたに笑顔が戻ったのを見て、心底安堵し体の力を抜いた。
あなたも僕と同じ理由で、不安だったとわかった。

あなたのアパートを出て、駅に向かいながら、僕はあなたとのこれからを真剣に考えていた。

あなたは僕を支えてくれているが、僕には男としてあなたに与えられるものを何も持っていなかった。
女性の体には、タイムリミットがある。
いつまでも、今の関係でいられるはずはなかった。

家族を捨てることが出来ないくせに、あなたを繋ぎ止めておく方法を必死に探している自分は、本当にずるい男だった。

綾瀬駅から電車に乗った僕は、車窓の近くに立っていた。
途中の駅のホームで、僕は妻の姿を見つけた。
妻は僕の知らない男と親しげに話していた。
その表情は、もう僕には向けてはくれない、恋する女性そのものだった。

僕が乗っている電車に妻は乗らなかった。

僕を繋ぎ止めていた錨の鎖が切れて、遠く遠く、漂流していった──


may_citrusさんの原作「澪標」、こちらも併せて読んでいただけると、物語をもっと楽しめます。


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さくらゆき
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