聡の話

うすぐらいなかにおんなの顔があった。
頬にくすぐったいのは、おんなの髪の毛だった。もういちど、じっくりと見てみる。面長の、おとなしそうな顔立ちだった。ゆびを伸ばすと、裸の体の柔らかさがある。そのままなぞっていく。これは背中だろう。ひんやりとしてなめらかな背中に、円を描くと、髪が左右に揺れ、腹の上の重みが揺れた。おんなは俺の腹の上に乗っているらしい。そう気がついたとき、おんなは俺の耳に唇をよせて、なにか囁いたようだった。

 その女に出会ったのは、六限目の講義の帰りだった。電車を待っているのか、退屈そうに向かいのホームの広告を眺めていた。ブルーグレーの薄いコートを着て、同色のパンプスを履いていて、後ろ姿だけでも俺の周りにいる女子高生たちとは、まるで違っていた。
 俺はその時、彼女のフリをしてくれる女を探していた。女子高生たちに付きまとわれて、困っていたのだ。彼女たちはバイト先の喫茶店にたむろして、携帯電話の番号をしつこく聞き、代わる代わる電話をしてくる。はじめはそんなに悪い気はしなかったが、彼女たちは店内でも大声で話をするし、紅茶とケーキだけで毎日のように二時間くらい居るし、たまに相手をすると、言うこと成すこと幼稚で、最近では、近くに寄って来られるだけでうっとうしく思うようになった。店長も、客に向かってもう来ないようにとは言いがたいらしく、閉口している様子で、最近は俺に対する態度が不自然になりつつある。クビにされるのも、時間の問題だろう。早くなんとかしなくてはいけない。気になる女はいないこともなかったが、悠長に口説いている暇もなさそうだった。
 思い切って、グレーのコートの女に近づいた。
 あわよくば、という気もしないこともなかったが、とりあえずバイト先につきあってもらい、女子高生たちに彼女と思わせられればそれでいいと自分に言い聞かせて、わざと横からぶつかった。
「あ、すいません」
 慌てて軽く頭を下げる。もちろん、わざとだが。
「はい」
 視線を上げると、目はその女の顔に吸い寄せられた。時々夢の中に出てくるおんなの印象の、そのままだったのだ。永く凍っていた氷の色を身に纏い、重たくたわんでいく時間を乾かしているおんな……。
「なにか?」
 気がつくと、女が不思議そうにぼんやりと俺の顔を見ていた。瞬時にそれまでなにを思っていたのかをすっかり忘れ、本当に慌てて取り繕う。
「いや、なんでもないです。それより、大丈夫ですか」
 しばらくの間、女は何も言わずに俺を見ていたが、そのうちに急にぽろぽろと涙を落とし始めた。
「どうしたんですか、どこかぶつけましたか」
 驚いて聞いたが、返事はない。
 熟れすぎた果物のような夕日が、ビルの後ろに隠れきれずにある。それなのに、光はこちらがわまで届かず、ただ青のグラデーションだ。そして夢のおんながいる。白い頬を、ことさらに青白く翳らせてうつむいている。冷たい風はその髪をひとしきりなびかせて、通り過ぎていく。
 この女はいま、少し震えて生きて目の前にいる。夢は幾度も見たが、おんなを捕まえようとして、目覚めるときに両手を必死で伸ばしていた。だが、この女は朝の光に消えてしまうことはないのだ。闇に溶けてしまうことも、きっとないだろう。この女を、思いきり抱きしめてみたい。どんな感じがするだろう。やはり、夢のなかと同じなのだろうか。
おんなの背中はひんやりしてなめらかだった。
 何秒かのあいだに、この女と過ごすことを思い描いたが、目の前で夢のおんなが泣いているのだと思うと、なぜか悲しくなった。
 そっと肩に手を置いて返事を待つ。
「……大丈夫です」
 小さな声で答えながらも、女は両手で口を覆っている。
 そのうちに人の目が気になり始めた。どういうわけなのか、子供の頃から女を泣かすと周りが気になってくる。ごそごそとポケットをさぐってハンカチを出し、彼女に渡すと言った。
「あの、ちょっと座りませんか?」
目立たないように、ベンチに座らせようと声をかけて背中を押した時、夢のおんなの、背中の感触が手のひらに蘇った。
「いえもう、大丈夫ですから」
女が言った。振り返った勢いで長い髪が揺れ、また新たに涙が流れていたが、俺に向かって小さくおじぎをすると乗り場の方に行き、ちょうど入ってきた電車に乗った。
扉が閉まってから手に持ったままの俺のハンカチに気づくと、謝るようにこちらを見た。片手を挙げて合図してみせると、少し笑ったようだった。

 おんなの乳房に手が届いた。
柔らかく、触れていると弾力が増していく。片方の乳首を口に含み、おんなの顔を見た。このようにすると、おんなは嫌がるような気がする。顔を見るのはやめて、もう片方の乳房を手のひらで包んだ。おんなはゆっくりと手を伸ばして、俺の髪を梳いた。

 向かいのホームの、インターネットのプロバイダーの広告をぼんやりと眺めながら、昨日と同じ夕方、俺は女を待ちぶせていた。
 それにしても……、夢のなかのおんなは、とても綺麗な体をしていた。小柄で、胸は大きいほうだった。……それまでの夢よりもずっと具体的だったのは、やはり似た女に出会ったからだろうか。
 そこまで考えた時、声をかけられた。
「あの、昨日の方ですよね」
 女が俺の脇に立っていた。肩にかけているバッグからハンカチを取り出すと差し出した。
「ありがとうございました。……良かった、ハンカチ返せて」
「わざわざどうも。……実は、持って来てくれるような気がしていたんです。あの」
 最初の目的を果たそうとして、ハンカチを受け取ると続けて言った。
「お願いがあるんですけど、ちょっといいですか」
「はい?」
 女は素直に俺を見上げた。なんとなく、声をひそめる。
「俺、秋山聡っていいます。学生で、喫茶店でバイトしているんですけど、最近、女子高生たちに付きまとわれて困っているんです。あの、突然なんですけど、彼女のフリをしていただけないでしょうか」
 女は腕を組み、首を傾げて俺を斜めに見上げた。
「……あなた、もてているんでしょう? いいじゃないの、放っておけば」
「いや、あの、ほとんど営業妨害なんですよ、助けてくださいよ」
 必要以上に眉をひそめた。
「それは、私はあなたにお礼をしなくちゃいけないのかも、しれないけれど……それじゃなきゃ、だめかしら」
 一歩、後ずさりして女は言い返した。
 夢のおんなと知り合いになるためには、強情に言い張るしか他に手はないようだった。
「だめです」
「だめって、だめなのはそっちだわ、突然そんなこと言われたって、だめに決まってるでしょ。他に誰かいないの、大学のともだちとか」
 女は吹きだしそうになりながら、俺を睨んだ。
「ほかの誰でもだめです、あなたでなければ」
 とうとう言ってしまった。
 女はちらりと俺を見た。視線で心の扉を開けて、見つめられたような気がした。
「あんまり困っているようには、見えないけれど。……昨日のお礼だったわよね、仕方ないか。……いいわよ、お茶くらいならつきあっても」
 彼女は出口の階段へと歩き始めた。
「恋人のフリだっけ? 小夜子って呼んでもいいわよ」
 俺は訂正した。
「いいえ、本当の恋人です、いいですよね」
 小夜子は振り返り、曖昧に笑った。

 髪に触れるおんなの手が止まった。
両手で肩を引き寄せて、首に口づけるとおんなはくすくすと笑った。くすぐったい、というささやき声まで聞こえる。唇を離すと頬に息の暖かさを感じて、現実と気づく。
「ケータイ鳴ってるわよ、寝ぼけてないで、出たら」
 三ヶ月前から小夜子と会うようになったが、バイト先に連れて行くのはなんとなく止めてしまったので、女子高生たちは相変わらずしょっちゅう電話してくる。だが、以前ほどうるさいとも思わなくなってきた。むしろ、この頃はうるさいならうるさいで、きちんと言ってやらなければ、とまで思う。店長は呆れ顔だが、それでも俺をクビにはしないらしい。
 それにしてもどうして俺は、女子高生や店長や、他のバイトの奴らから隠しておきたくなるほど、この女に惚れたんだろう。夢のおんなにそっくりだからか? それとも、何か他に理由があるんだろうか? だいたい、なぜ小夜子は、夢の女にそっくりなんだろうか。
「電話だってば」
「いいんだよ、そんなの、放っておけば」
「あらそう、じゃ、私が出ようかな」
 からかうように顔を覗きこまれてしまう。
「いいよ、もう」
 少しむっとしながら、ベッドから腕を伸ばすと、サイドテーブルに置いてあった携帯電話に届いた。ボタンを押す前に、雑誌をぱらぱらとめくっている小夜子の横顔を一瞥する。
 あの時、なぜ泣いたのかを何度聞いても、口をつぐんでしまい、話してくれようともしない。
 そこまで考えると、電話に出るのをやめ、電源を切って小夜子を引き寄せる。彼女は電話に出なかったことに少し驚いたらしく、ためらってから俺の腕のなかにおさまった。
「どうしたの?」
 胸から直接声が響いた。
「どうもしないよ」
 実際、どうもしないのだ。彼女とこうして寄り添っているのは、まったくと言っていいほど違和感がない。眠るのと同じだと感じる。毎日のように見る、夢のおんなは小夜子に変わっていった。泣いたり、笑ったりする顔がはっきりと写り、そしてそれは小夜子なのだった。夢のなかでも肌は、なめらかで綺麗だった。
 俺は腕をゆるめると、小夜子の着ているトレーナーの下からもぐりこんだ。彼女の乳首を口に含む。そっと見上げると、襟口の隙間から目が合った。
「ばーか」
 馬鹿にされて、俺は嬉しかった。

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